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第15話  Aunty Genoa アンティ ジェノア

 その日は早朝、まだ外が暗い時間に、私にお知らせを告げる “いつもの鳥” が、ひときわ大きな声で強く私に呼びかけていた。私は目を覚ましたが、再び眠ることにした。いつもなら声をたよりに鳥の居場所を探し Oli を捧げるのだが、この暗闇では到底姿を見つけられない。
 しかし、ふと頭をよぎった事があった。前日、アンティ ジェノア がもう長くはない、というお知らせが彼女の通う教会で家族から告げられた、という電話を受けていたのだ。
 Aunty Genoa Keawe は89歳で、現役を続けていたハワイを代表するファルセットボイスのレジェンド歌手だ。ハワイで彼女を知らない人はいない、皆に愛された歌手の一人だ。皆が親しみを込めて “アンティ” と呼んでいた。
 実はこの “アンティ” や “アンクル” を名前の前につける呼び方は、ハワイではよく聞かれる言い方で、親しみを込めて言うハワイ独特の呼び方と解釈されているが、そうではない。正しい使い方は、個人的に親しい間柄の時にのみ使われていたのが、現在は誰でも〝気軽〟に〝安易〟に使うようになったとクプナ(年配の知恵を持った人)から私は教わっていた。アメリカナイズされた今のハワイ人は知らないのだ。ここで私が〝アンティ ジェノア〟 と呼ぶのには、もちろん訳がある。
 2008年2月25日夜中に、 Aunty Genoa は89歳の生涯に幕を下ろした。悲しく、とても残念なことだ。でもアンティは十分に、きっとそれ以上に、彼女の天命を果たしたと人々は感じていることだろう。
 体調を崩して入院していたアンティは、家で最後を迎えたいと自ら帰宅を申し出たそうだ。そして、1月まで出演していた木曜日のマリオットホテルを訪れ、孫の歌う姿を見届けたという。
 ここに Aunty Genoa が私に語った話から、大切な何かを感じ取ってもらえたら、アンティも喜ぶのではないかと思い、ペンを取ることにした。
 アンティは古くからとても親しくしている、アンティと私の共通の友人にいつも、私と主人についてたずね、気にかけてくれていた。そして彼女の通う教会に顔を出すように、と言ってくれていたが、決して私たちを入信させようとしていたわけではなかった。
 さて、昨年2007年のある日曜日、私と主人はアンティに会うために教会のサービスに出席することにした。私があいさつに行くと アンティ ジェノア はとても喜んで、となりに座るよう私に言った。
 そしてアンティはサービスが始まるまでの間、ある日本人のフラの先生の名を口にし、私に話を始めた。
私はその人を知っているか聞かれたので、名前を知っていると答えた。すると、アンティは日本で開かれるコンサートのゲストに来てほしいと彼女に頼まれたという。しかし、アンティにとり、大切な日曜日が日程に入っていたので断ったのだという。
 すると、そのフラの先生は、〝もう少しお金を払うから、ぜひ来て欲しい〟とお願いしたという。アンティは眉間にシワを寄せ、そしてとても悲しそうだった。
 〝ミカ、わかる?〟と、静かな口調で言ったアンティに、私は〝わかります!〟と答えた。アンティはこう続けた。
〝ミカ、私の声は神様にもらった贈り物なの。特別な贈り物なの。だから私はずっと歌ってきた。自分の子供さえ、私より先にこの世からいなくなっても、それでも私は生かされていて、歌っている。だから日曜日は私が唯一、一日中仕事をお休みにして神様に感謝をする大切な一日なの。〟
 私は、私をじっと訴えるような目で見て話すアンティに〝よくわかります!〟ともう一度答えた。そして、〝お金の問題じゃないのよ…〟アンティはつぶやくように言った。
 私はアンティと長い間交流を持ち、有名で顔の広いアンティに、いろいろな人を紹介してもらっていた日本人のフラの先生を、ここで批判するつもりは全くないが、頼まれれば快く、できることはしてあげてきたアンティの心をわかっていなかったことをとても残念に思う。
 昔、アンティは日曜日もエンターテイナーとして仕事をバリバリしていた。しかし、ある時からピタリと日曜日の仕事を止め、それからは毎週、毎週必ず教会に来るようになったという。きっとアンティの中で何かがあったに違いない。大切なことに気づいた何かだ。そして最後まで自分の人生を天に感謝しながら、天命をまっとうしたのだと思う。
 ホノルルのお葬式は、もちろんTV中継もされ、5000人を超える人が駆けつけた。数日後、ライエの小さな教会でも人が集まった。私と主人はそれらの式には出席せず、その週の日曜日、アンティの通っていた、いつも通りの教会に向かった。少し遅く到着したため、道路端には駐車スペースはもうなかった。当然いっぱいであろうと、教会の駐車場に迂回するために入って行った。もちろん満車状態だった。
 ところが、出口近くにさしかかると、ラッキーなことに他のところより、広く線で仕切られたスペースが、たったひとつ空いているではないか。私たちが車を止めよう進んで行くと、そのスペースのすぐ前に駐められていた車のナンバープレートは、〝GENOA〟 だった。家族が乗ってきたアンティの車だ。主人と思わず顔を見合わせ、私たちは自然に笑みがこぼれていた。今日、ここに来た私たちの気持ちは、アンティに伝わったのかもしれない。
 アンティが大切な胸のうちを語ってくれたことは、私にとって貴重な贈り物となった。そして、ハワイのリビングにはアンティが〝今日出来上がったばかりの、最初の1枚よ〟と言って、私にくれた白黒のポートレートがサインと共に飾られてある。
 4月6日さくら咲く日本で、Aunty Genoa の声は春の空のように澄み渡り、春の日差しのようにあたたかく、 Hua Akala そう、さくらの花びらのように、天空高く舞った。私たちは、アンティの思い出を胸に踊った。
 フラは、ハワイに欧米文化が上陸し、現在世の中で主流となっている〝新しいフラ〟が生まれた。しかし、本来のフラ、ハワイに元々あったフラの本当の姿は、山に、海に、太陽に、月に、雨に、風に、そして人々への〝祈り〟だ。あらゆるもの、ことに新しさを追求し、時代は変わり、進歩、進化を遂げても、祖先の心は決して変わらない。変えられるべきものではない。住む人が変わり、自然も破壊され、景色は変わっても〝魂〟はそこにある、生き続けていると考えたい。フラにモダンもカヒコもない。フラはフラだからだ。
 そのフラの本質がないがしろにされている現代はとても恐ろしく思える。いつからか、人はフラを、口では本来のフラの持つ意味をキャッチコピーのように語りながら、実際のフラとは程遠い、利己的な欲の道具として使うようになった。
 私は、生徒と共に、昔のハワイの人々が持っていた魂(マナ)の存在する〝フラ〟を、その心を忘れずにこれからも踊り続けていくだろう。
 アンティ ジェノア をはじめ、大切なことは何かを考え、見つめるチャンスをいつも与えてもらえる人達がいることをありがたいと思う。もちろんモエ・ケアレもそうだ。
 その人たちの心、祖先の心を裏切ることなく、生きて行きたい。

 最後に、このミスティックハワイは、毎話15日という日を選んで更新してきたが、本日4月15日についてひと語。
 極めて私的な事だが、私がプロのミュージカルダンサーとしてデビューとなった日、東京ディズニーランドの開園記念日であることが一つ。二つ目は、人生の大きな変化である結婚記念日。そして三つ目は、ハワイの父、モエ・ケアレの命日だ。人生の転換となった三つの大きな出来事の起きた日、それが4月15日なのだ。
 そしてもう一つ、偶然にも気がつけば、今回は第15話ではないか。 Aunty Genoa という特別な人について話すことにしたことが、偶然の不思議をここにもうひとつ起こしたような気がしている。
# by ohanaokeale | 2008-04-15 00:40

第14話 ニイハウ オハナ その2

 カウアイ島とニイハウ島を行き来して暮らすおばさんと親しく付き合うようになった私は、頻繁にカウアイ島を訪れるようになった。それによって体験している感動的な出来事については追々話すとして、2007年8月にカウアイ島で出会った人について話さなくてはならない。
 カウアイでの滞在中はおばさんに言われた通り、ニイハウの家族と共に過ごし、私がハワイ語に慣れるように子供達もハワイ語で私に話しかけるようにしたり、貝の選別を手伝ったりして過ごす生活だ。おばさんは私の手料理がお気に入りで、リクエストに答えてイタリアン、煮物、寿司まで作る。多いときは家族全員で10人以上集まる。元々料理好きなので、すし桶まで持ち込み、職人のように“にぎり”までトライし、結構楽しい。
 夜、おばさんと私は皆が寝た後も話しをしたり、指示されたとおりに片づけや、言われた用を済ませてから横になる。何故なら半身が不自由なおばさんは一人では何かと大変なのだ。いつも一緒にいられるわけではないからこそ、出来るときに精一杯しておきたいと思う。
 その日、昼間おばさんは仕事に行き、他の家族も夫々出かけていたので夕方近く私は主人と車でNohiliの海岸端まで出てみることにした。以前にも行ったことのある場所だったが、海岸に出るまでの道は舗装のされていないひどいデコボコ道でうっかり口をあけていたら舌を噛むか、首や腰の骨を捻挫するのではないかと心配するくらいひどいコンデションの道だ。
 やっとデコボコ道が終ると砂が道まで覆っている軽い砂丘状態を超えてようやく辿り着く。前回、砂丘状態の地点で、普通乗用車の私たちは見事にはまり身動きがとれなくなった。何を思ったか主人はまたもや無理やり突破を試み、もちろん、車は砂に埋もれ止まった。前回は止まるや否や、待機していて車を助けてはお礼をもらう仕事?の人が現れたが、今回は出て来なかった。しかし、運良くビーチバーべキューをしている地元の人に助けを求め、ようやく脱出した私たちはそそくさと、ろくに海も見ず家路を急いだ。
 その帰り、ほとんど木もろくに生えていない乾燥した畑に“ある鳥”が現れた。その鳥はある時から、私に良い知らせを告げる幸せの青い鳥ならぬ、不思議な鳥だった。まさかこんな運の悪い間抜けな出来事のあとに、いったいどんな良いことがあるのかといささか、けげんに思いつつも少し気分を良くし、おばさんの家に戻った。
 家はまっ暗で誰も帰っていなかった。どうやら夕食の支度をする必要がなさそうなので、私たちはどこかで外食をすることにした。といってもカウアイのこのあたりはほとんど何も無いので、最初に見つけたレストランに入った。奥からハワイアンの生演奏が聞こえてきた。ウエイトレスがミュージシャンのすぐ横の席に案内した。その席しか空いていなかったのだ。カウボーイハットにウエスタンブーツを履いた男の人がギターを弾きながら一人で歌っていた。
 “Waialae”という歌だった。この歌を歌う人は珍しかった。聴いている人で知っていた人も少ないかもしれない。私はモエさんが歌っていたのでもちろん知っていたのだ。私が徐々に歌に引き込まれていくとその人は次に“Ua Mau”という歌を歌い始めた!
 この歌は、ニイハウの本にも伝説が出てくるモエさんのおじいさんが作った特別なファミリーソングだった。私は鳥肌が立つと同時に涙がとめどなく溢れた。この人はいったい誰なのだろう?十番まであるこの歌をこの人は何も見ずに最後まで歌いきった。それどころか心の底から思いが込められているのがひしひしと伝わってきた。
オハナ(家族)、だろうか?
 演奏が終るとその人は私たちのところへやってきた。どこから来たか尋ねられたのでオアフ、と答えた。きっと席に着くなり自分の歌を聴いて泣いていた不思議な観光客と思っただろう。私は何か尋ねようか迷っていたが、何故かこの人は間違いなくモエさんに関係のある人だと確信したと同時に「私はモエ・ケアレのハナイです。」言葉が口から出ていた。と、その瞬間その人は天に向かって握りこぶしを高く上げて「Aloha Ke Akua!」と叫び、私を力いっぱい抱きしめた。そして何度も何度も繰り返し天を仰いだ。
 この時まだ私は、Uncle Manaが何故これほどまでに私との出会いを喜んでくれたのかを知らなかった。彼はMoe Kealeの甥で最後のニイハウのケアレ、ジョン・カイマナ・ケアレJr.だった。私をかわいがってくれるニイハウのおばさんの弟だ。
 そして、感動的な出会いの翌月の9月14日、Uncle Manaに再会した日が最後になるとは、その時思いもしなかった。
 9月、私はニイハウのおばさんが作詞し、2007年度の“NaHokuHanohano Award”のHakuMele(最優秀作詞賞)を受賞した”Niihau”という歌をニイハウの子供達に教え、コンサートで踊るという特別な機会を与えられ、カウアイ島を訪れていた。
 コンサート前日の早朝、あるカフェでUncle Manaとバッタリ会った。彼は一緒に来ていた友人二人に私を紹介した。
「僕のおじさん、モエ・ケアレを知ってるよな?彼女はアンクルモーのハナイなんだ!」
二人はへえ~!という感じだった。そしてUncle Manaは彼らにこう続けた。
「アンクルがカウアイに来たときに日本人のハナイのことを聞いていたんだ。ついに会えたんだよ!」
とても感慨深げだった。モエさんが亡くなり5年も経つ、いつ話したのだろう?それでこの人は私に会えたとき時に、あんなに喜んでくれたのだ。
 私が持ち歩いている勉強のファイルのモエさんの写真を見せると、自分の顔を横に持って行き、友人に見せて「どうだ、似ているだろう?」と得意そうに笑った。モエさんのお葬式で、お棺の横で一晩中立っていたのがUncle Manaだった。
 2007年12月13日、50歳でUncle Manaはモエさんのところに行ってしまった。
一度しか聴くことのできなかった彼の歌声と、天を仰いだ姿は私の頭と心の奥深く刻まれ、素晴らしい贈り物となった…….。
# by ohanaokeale | 2008-01-15 00:26

第13話 ニイハウ オハナ その1

 この一年間に、私はこれまでにまだ出合うことのなかったオハナ、ハワイの家族に対面することとなった。もちろん今までと同じく、偶然が偶然を呼ぶ感動的な出会いばかりだった。
 2006年の秋頃だった。生徒の一人の結婚が決まり、結婚祝いに思いついた、“とあるもの”が私にある人物との素敵な出会いをもたらした。
 正直に言って生徒の結婚式の出席は全員となるといろいろな意味で極めて難しいものだ。ある日のお稽古のあとふと、彼女のお付き合いしていた人について元気か尋ねてみた。すると彼女は少し驚いた顔をして、実は12月に結婚が決まったこと、私にお式に出席してもらいたいが困らせてしまわないかと言い出せないでいたことを話し出した。
 その様子はいかにも、いつも相手の心を思いやり、気配りをし、控えめな彼女らしい態度だった。私は頭の中で予定をチェックし、出席の返事をその場で告げた。嬉しそうに帰った彼女は、すぐにお礼と自分の気持ちを綴ったメールを送ってきた。
 今までにも彼女が悩んでいたり迷っている時に限って私が話すきっかけになる言葉をかけたり、解決の糸口になる話を自然にしたりということが頻繁にあった。彼女はその度に、何か縁があるのかもしれないと偶然を心から喜んでいたが、今回も同じだった。
 さて、私が贈り物に思いついたのは 私のハワイの父、モエ・ケアレに由縁するNiihau島の宝とも言えるニイハウシェルのネックレスだった。自然の産物としての希少価値はもとより、細工の技術、美しさは類を見ない特別なレイで、高価であるだけでなく、何より観光客の訪れることのできないこの島に暮らすハワイ先住民の心が宿る、品なのだ。
 博物館やハワイのアーチストの作品や特産物を扱う店でも購入できるが、これで生計を立てる島の人のことを考えると直接買うほうが良いと思った私は、ハワイの家族の中で、最も信頼しているモエさんの甥の一人に相談をすることにした。
 二日後には私は日本に戻る予定だったが、なんと丁度その前日にニイハウの家族が用事があり偶然にもホノルルに来るというタイミングの良さで、レイを持ってきてくれることになった。しかも、今までずっと自然に会うチャンスを待っていたニイハウのおばさんに会えるという、私にとってまさに一石二鳥の出来事に心は弾んだ。
 さて、待ち合わせのホテルのロビーで顔も知らないおばさんを待った。どんな人か、どんな顔なのかをあれこれ勝手に想像しながら時間は経った。すると電動の車椅子に乗りムームーを着た小柄な人が微笑みながらこちらに近づいて来た。お互いを確認し合い、私達は抱き合った。
 彼女は娘夫婦を伴って来ていた。早速、娘夫婦が徹夜で仕上げたというレイとイアリングを見せてくれた。ニイハウシェルの中でもとりわけ小さいkahelelani(カへレラニ)という貝でできた見事な美しさに息をのんだ。そして値段を尋ねるとおばさんと娘は早口なハワイ語で何やら相談を始めた。大学で学ぶようなスタンダードなハワイ語とは全く異なる、ネイティブのハワイ語だということは私にも解ったがもちろん何を言っているかは理解不能だった。
 そして、言われた通りの金額を渡し、お礼を言った。一緒に食事をした後、別れ際に私の顔をじっと見ていたおばさんが言った。「あなたはまるで少女のような人ね。でも心の中に強いものを持っている。あなたのような人、好きよ。」
そして今度カウアイに来なさい、二イハウシェルレイの作り方を教えてあげるからとニコッと笑った。いろいろな思いが込み上げて来て涙がこぼれた。
 初めて会った私を分析して、それを口にしたこのおばさんがいっぺんで大好きになった。なぜならこの人に嘘はつけないからだ。私は嘘をつかない人間だから、人の心を見抜くこういう人こそ安心なのだ。モエさんも同じだった。
 自分に都合が悪くなると作り話をしてまでも、人を悪者にしようとする人たちの狡さにうんざりしている私は、このおばさんに出会わせてもらえたことは天の助け、の気持ちだった。おばさんは、会う理由があって私たちは出会った、とも言った。その通り、このあとおばさんとの付き合いは私にますます特別な出来事をもたらすこととなった。
# by ohanaokeale | 2008-01-15 00:14

第12話 Puu Anahulu

 ここ数年11月になるとハワイ島での“フラの奉納”がハラウの行事として恒例になりつつある。ハラウのモットーでもある“昔の人たちが大切にしていたことを続けて行く”活動のひとつだ。
 そこにフラ本来の重要な役割や本質を見ることができる。そしてそこには真の魂とスピリットが存在する。さてこの活動については別の機会に話すとして本題のハワイ島で出合った、ある“mele(歌)”についての話しをしようと思う。
 2004年7月、私はKumuとハワイ島で車を走らせていた。Kumuは窓から見える景色の全てについて説明をしていた。木々、草花、土地にまつわる歴史、伝説、自然現象等など.。私は耳も目も全開状態で窓の右左をキョロキョロしながら、Kumuの口から発せられるハワイ語をひとつも聞き逃すまいと復唱しつつ、時おり速記のごとくメモを取っていた。このやり取りはいつでもどこでも当たり前になっていた。だいぶ慣れてきて耳もかなり良くなってきたように思う。
 そして、本来「Kumu」とはどのような人のことを指す言葉か?というと、そのひとつは“ハワイの風、雨についてどこからどこに、どんなふうに吹いたり降ったりするのかを知っていること”だ。
 以前、私に生徒がいることを知ったあるハワイのミュージシャンが自分のステージに私を呼び「彼女は日本のクムで、、、」と紹介した時に、私は自分をクムと言わないで欲しいと訂正し、意外に思われたことがあった。もちろんカッコつけや偉そうな気持ちからではない。どんなに踊りを褒められても、ぜひあなたに教えたいなどと怪しい誘いがあっても、得意になるどころか自分が学ばなくてはいけないことは何か、知らないことは何かを常に模索していたからだ。
 明確な根拠に基づいていたわけではないが「Kumu」とは特別なものを授かった人のことで、例えハワイですら誰でもがなれるものではないことを何となく気づいていたのかもしれない。かくして、この“気づき”は間違ってはいなかったと思うこの頃だ。
 最近では、フラの振り付けをする人を皆クムと呼ぶようだ。振り付けされたフラと、昔から存在する本来のフラの違いがわかる人は少ない今日だから仕方がないかもしれない。
 さて、話を元に戻そう。景色の中で私が特別に心を惹かれ、とっさにスケッチをした場所があった。私は通り過ぎても目に焼きついたひとつひとつを細かく覚えていて描きとめていた。そしてKumuに教えてもらった場所の名をそこに書きとめた。
 それから数週間後、私はアメリカ本土、オレゴン州にいた。
 Moe Kealeに生前、私のことを聞かされていたという甥の一人に呼ばれ、踊るために遥々この地を訪ねていた。ハワイからGeorge Kuo,Aaron Mahi,Martin Pahinuiらがゲストで来ていた。彼らはワイキキマリオットホテルで毎週日曜日に演奏をしていたがこの旅がきっかけですっかり親しくなったのだった。そして私は、数週間前にハワイで絵に残していた景色を、遠く離れたオレゴンで心の中に再現することとなったのだった。  
 一日目のステージ、彼らの演奏を聴いていたとき、ある一曲が私の心を捉えた。
 Martinの歌声は、昔はじめてMoeさんの歌声を聞いた時と同じ感覚で何故か懐かしく、私の血液の中にしみ込むように流れ込んできた。私の身体は固まり、心が震えていた。そのメロディーが頭から離れなかった私は、次の日も口ずさんでいた。翌日のステージの合間、ついに私はMartinに頭に残っていたメロディーの一部を歌い、「この歌が好きなんですけれど、タイトルを教えていただけますか?」と尋ねた。Martinは「ああ、ああ、それはプウアナフルだよ。」と答えた。プウアナフル?Puu anahulu?数週間前、ハワイで私がスケッチした景色、まさしく“Puu Aanahulu”だった。
 その夜、ホテルの部屋で、いつも持ち歩いている分厚いフラのノートを開き、鉛筆で描かれた紙をじっと見つめた。Martinの歌が頭の中で流れると、目の前の絵に色がつき、私は“Puu Anahulu”の場所に風に吹かれて立っていた。
 それから数ヶ月後、私は“Puu Anahulu”を踊っていた。何故か熱いものが込み上げ涙が溢れた、、、、、、。

     Nani wale Puu Anahulu i ka iuiu
     Aina pali kaulana puu kinikini、、、、、

 私が心惹かれた理由が何かきっとあるにちがいない。いずれ、それを知る日が来るだろう。
# by ohanaokeale | 2007-11-15 23:38

第11話 Ululani

 ハワイのネイティブの植物に “Ulu(ウル)” という木がある。英名はブレッドフルーツ、別名 “パンの木” と呼ばれ、実がグレープフルーツ大の大きさで鮮やかな黄みどり色をした “Ulu” には5種類あり、その昔ハワイアンの大切な食用のひとつだった。現在では特徴ある葉と実がハワイアンプリントを代表するデザインとして布や紙にプリントされ商品になり売られている。
 “Ulu” の木は、あちこちの家の庭でも見かけることができるが、私の住むManoa(マノア)からワイキキ方面に出る時に必ず通る道のある大きな家の庭にもかなり立派な木がある。ある頃から私はこの “Ulu” の木が気になり始めた。元々 “Ulu” は好きな植物のひとつであったが、このところ特に私の心を惹きつけていた、この “Ulu” はとても力強く、勢いがあり、その緑色が輝いていた。
 さて話は変わり、日本で “Alohaコンサート” を終え、7月中旬過ぎにハワイに一緒に戻った私とモエさんの甥を待っていたのは、以前から体調を崩していた彼の妹 “シャリーン” の訃報だった。
 1ヶ月前に一度入院していたアンティ “シャリーン” を見舞ったのが彼女に会った最後になった。片手に入る回数しかあったことのなかったアンティだったが、とても強烈に印象に残る人だった。背は大きくないがガッチリしていて、声も大きく迫力のある人で、いつも豪快に「ガハハー」と笑っていた。
 彼女のお見舞いに行ったのはちょうど時を同じくして私をとてもかわいがってくれているNiihauのアンティも同じ病院に入院している時だった。私たちが行くととても喜んで、前日まで集中治療室にいてまだ鼻に管を通している状態だったにもかかわらず一生懸命話をしようとした。私がベッドに近づくと私の手を握り 「You are Keale, yeah-!」 と言ったあと 「ガハハー」 と笑った。
 その時の握り締めた手の力の強さと、私の手に食い込んだ彼女の鮮やかな“黄みどり”色のマニキュアをした爪が痛かった。その感覚を今でもはっきりと想い出せるほどだ。そう言えば以前、ダウンタウンで偶然に会った時もシャリ-ンは鮮やかな“黄みどり”色のマニキュアに、同じ色のバッグを持っていた。
 お葬式の日、シャリーンのいとこのNiihauのアンティと一緒にシャリーンのお別れに行った。お棺の中で微笑むシャリーンの爪はやはり鮮やかな “黄みどり” 色だった。そして同じ色のドレスに身を包んだ彼女はとても美しかった。
 私はその日彼女のミドルネームが “Ululani” であることを初めて知った。最後まで彼女が身に付けた色、それは鮮やかな“黄みどり”色、まさに “Ulu” の実の色だった。最高 (lani) のウルの名を持ったアンティ シャリーンは今、天 (lani) のウル (Ulu) 、そう “ Ululani ” だった。
 シャリーンの姉妹のアンティが私に言った。 “シャリーンは、すでに天に行ったアンクル モエ やイズ、リディア達と共にあなたのハラウを見守ってくれることを覚えておきなさい” 。お葬式の帰り道、あの “Ulu” の木の前で、私はOliを捧げた。
 日本に帰る日の朝、その家の玄関の前まで行ってみた。すると中年の日系の婦人の姿を庭に見つけたので、朝の挨拶をした後、思い切ってUluをひとつもらえないか聞いてみた。まだみどりで食べられないわよ、と言うので食べるためではなく2週間程前にアンティが亡くなり、彼女の名がUlulaniだったことを伝えた。
 するとその婦人はとても快く了承してくれ、広い庭の一番端の道側にある立派なUluの木から実と葉をカットしプラスチックバックに入れてくれた。今年は特に豊作だそうだ。 “おばさんのために飾るのね” と手渡ししてくれた。私は “はい” と答え、何度もお礼を言いその場をあとにした。
 この話を読む頃、レッスンに来る都度に生徒たちはハラウの入り口に飾られるこの “Ulu” の鮮やかな黄みどり色を目にすることだろう。そして私はアンティ シャリーンの私への最後の言葉、 “ You are Keale ” を決して忘れない … 。
 時々ふと思うことがある、“ Keale ” の名が付いたことで私の人生は容易ではなくなった。しかしその分、それは深く特別な意味を持っている。そしてどういう道を歩むかは考えなくても自然と目の前に道が現れる。自分で道をつくるのではない。自然に与えられた道が正しい道だ。
 自然体であること、自然の成り行き、また自然自体が尊く大切なものだ。「自然の」の意を持つハワイ語 “ Kupono ” は pono (正しい) に ku (立つ) ということだ。自然に与えられた道がたとえ時に厳しい道だったとしても、私は常に “ Kupono ” であることを選びたいと思う。
# by ohanaokeale | 2007-08-15 10:22