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第16話  Tatoo(タトゥー)

ニイハウのケアレのおばさんから聞いたハワイアンのタトゥー(入れ墨)について話そうと思う。
おばさんはニイハウ島とカウアイ島を行き来しながら、ハワイ人の教育や文化、ハワイの環境自然などの分野で多大な貢献をしている、名の知れたネイティブハワイアンだ。
今やハワイアンと一概に言ってもいろいろな人がいる。
ハワイに夢中の人々にとり、ハワイ人の血を持っていることは、それだけでハワイの文化を知る人と錯覚を生み、絶対的存在になる傾向がある。また、それをいいことにネイティブの知恵、知識、思想、文化に精通していなくとも、あたかも受け継いでいるかのような言動、行為をしている恥ずかしいハワイ人は多くいる。
私のおばさんは、その中で素朴さと強い信念と志(こころざし)を持ち合わせ、自己の利益ではなく、ネイティブハワイアンとしてハワイのために生きている真のハワイアンといえるひとりだ。第13話で初対面を果たして以来、私をとてもかわいがってくれている、そして私も尊敬する、あの、おばさんだ。
さて、実は私は過去に2度程、タトゥーを入れるか迷ったことがあった。悩むという程、大げさなものでもなかったが、私はピアスの穴をあけることにすら抵抗を持っていたことや、子供の生徒がいるので、その親からしてみればタトゥーを入れている先生はいかがなものか?とも思い、結局入れることなく現在に至った。
もちろん、今後もタトゥーを入れることはないだろう。そしてニイハウのおばさんの話しを聞いて、タトゥーを入れなかったことは良かったと思っている。
最初のタトゥーを入れるチャンス(?)は当時の私のルームメイトが大がかりなタトゥーを入れた際に、ミカも同じ図柄の一部をどこかに小さく入れてみては?という話しだった。しかし、ひどく体調をくずしたのを目のあたりにし、アレルギー体質の私は、当然入れるのをやめた。
2回目は、それから何年も経ってからだった。モエ・ケアレが他界してまもなく、ある人からモエさんが生前タトゥーを入れることを考えていた、と聞かされたのだ。それならば、私もいよいよ祖先である守り神のホヌ(カメ)でもいれようかしら、と考えた。しかし、そうこうしているうちに、何となく入れない結論に達したのだった。
それには、大きく2つの理由があったと思う。
ひとつは、私が新たに歩み始めていた“フラ”にあった。この“フラ”についてはいずれ詳しく話すときが来ると思うが、簡単に言うなら、“現在の、ハワイのクムフラという人達の教えるフラとは異なるフラ”を学び、踊っていたからだ。この“フラ”の踊り手はもちろんタトゥーをしていなかったことは大きい。
そして、もうひとつは私を養女(ハナイ)にしたモエ・ケアレにある。
モエ・ケアレは祖先に“カフナ”がいた。そして彼自身もその役目をある部分受け継いでいた。血筋に“カフナ”がいるということが、その家系が全員その能力を持ち、役目を持つというわけではない。逆に相反するような者が出る場合もある。それはバランスだ。
モエ・ケアレには他の人とは違う、不思議なスピリチュアルな力があったことを実体験で私は知っている。さらにモエさんが他界してから、年月が経つほどに、生前の私への言動の意味、理由が明確となって来ている。
ハワイの“カフナ”とは、同じ先住民の文化で例えるならば、ネイティブ・アメリカン(アメリカ先住民又はアメリカ・インディアン)と呼ばれる人たちの“メディスン・マン”にかなり近い。
アメリカ先住民文化の研究者で立教大学教授でもある阿部珠理先生は著書で「メディスン・マンをどう日本語にするかについては大いに迷う」と書いている。そこで先住民の言語をその語源の“背景となる根本的思想”から分析し、ことばの意味を解説している。
“カフナ”もヒーラーの意と解釈されることが多いが、かなりの誤訳だ。“カフナ”は生まれつき、もしくはある時から特別な能力を持ち、トレーニングなどでなろうとしてなれるものではない。薬草の知識があることでもない。何よりもある意味“神聖な域”を持つ人であるから、それを肩書きにしてお金を得ることも、自ら名乗ることも“カフナ”はしないのだ。
そのような役割を持つ人もタトゥーはしていない。モエさんがタトゥーを入れようとしていたとは考えにくい。
ニイハウのケアレのおばさんの話しはこうだった。
おばさんの娘がタトゥーを入れたい、と言い出した時のことだ。おばさんは黙って娘の目をジッと見ると、手招きをした。
すると、ただならぬ雰囲気を感じ、
“私がもしタトゥーを入れたら‥私を殺す?”と恐る恐る聞いた娘に、おばさんはこう言った。
“もちろん!私はあなたを殺すわよ”
何とも物騒な会話だ。
しかし、おばさんの言葉は、ハワイ先住民としての価値観に基づく、大切な裏付けとなるものがあって発せられた言葉なのだ。
そして、おばさんは、“ケアレはタトゥーを入れてはいけない”と厳しい表情で言った。当然、私はそれについて質問などしなかった。そう言うから、そうなのだ。
私が2度のタトゥーを入れそうになった機会は、まるで“運命の分れ道”だったような気がした。ハワイのチーフのタトゥーや戦士のタトゥーも、その入れ方に意味があった。
現代では、タトゥーはファッションのひとつになっている。たかがタトゥーくらい、または古いことにこだわっている、という見方をする人もいるだろう。
しかし、本来の文化の中にある、心の在り方や考え方、ひいては生き方のありのままを理解する姿勢が、その存在に敬意を払うということではないだろうか。
たとえ、それが“現代に残されているわずかなもの”であっても、本来のハワイ人の持っていた、目に見える部分も目に見えない部分も、全てを尊重したいと思う。
今やハワイは、“伝統”と言われているものが、本来のそれとは形を変えて、伝えられて来てしまっている。それはハワイ王国からアメリカのいち、州になったことも要因だが、それと共に何より人々の心や感覚、価値観が変わってしまったことによるところが大きい。
進歩や進化と称し、常に目新しいものを求め、本来の先住民の持つ価値観とは大きくずれたものに目の色を変えてエネルギーを注いでいる。
ネイティブのことばの意味が“背景となる根本的思想”から知り得るのと同様、そのほとんどが書き残されていない真実の“ハワイ文化”に出会えるか、否かは、“古い”と言われる人達と同じ価値観を持っているかどうか、なのだろう。
それは、モエさんも言っていた“血”ではなく、そうであるかどうかが重要なのだ。
ピュアハワイアンであったモエ・ケアレが日本人である私を養女にした大きな理由が、そこにあるのかもしれない。
これから先、世の中に新たな変化の波が押し寄せたとしても、私の価値観は決して変わらないだろう。
それは“原初に基づく、自然の法則にのっとったものの大切さ”を感じているからだ。
by OHANAOKEALE | 2008-09-15 20:30


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