第10話 BeachBoys -1

 Moe Kealeは“ビーチボーイ”だった。いろいろな“ビーチボーイ”がいるが、波乗りの好きなガキ大将達は波の取り合いで喧嘩をしたり少々荒っぽいところもあるが、気は良くて情に厚く、ズルをしたりウソをつく奴は仲間に入れてもらえない。吹く風、立つ波、潮の流れ、自分達の海についてのたくさんの知識と経験を持つ彼らは、70、80歳になっても現役の“ビーチボーイ”だ。
 私はサーフィンはしないが自然と親しくなった“ビーチボーイ”達がたくさんいる。その中でも“Rabbit Kekai”は85歳になる現役のレジェンドサーファーで、今も世界中で彼の名のついた大会が開かれている。
“Ivan Harada”はライフガードのキャプテンとして長年ワイキキの海を守り続け、彼の名のついたサーフポイントがある。アウトリガーカヌーのキャプテンで名高い“Bule Makua Jr.”や初代のホクレア号のクルーだった“Dukie Kauhulu”らはMoeさんと同じ100%ハワイアンの血を持つ、親しかった“ビーチボーイ”だ。彼らについては後々語るとして、まず最初に偶然出会うことになったMoeさんと由縁のある“一人のビーチボーイ”について話そうと思う。
 ワイキキでサーフィンを始めて、いつの間にか伝説の“ビーチボーイ”達が少しずついろいろな事を教えてくれるようになり、若いロコから“アンクル”と呼ばれるようになった主人は、毎朝のサーフィンが日課となっていた。私はハワイにいる時は、その日海に入らない“ビーチボーイ”達と一緒に、海を眺めながら、主人が上がってくるまで時間を過ごすのが習慣となっていた。
 その日も許可された人だけが座れるイスに座らしてもらい、私はペンを走らせていた。すると私のとなりに腰をかけた、一見怖そうな感じの“ビーチボーイ”が「何を書いているんだ?」と声をかけてきた。見かけたことのあるような気もしたが、まだ話しをしたことのない人だった。私は「Moe Kealeの思い出を書いています。」とそのままを答えた。ミスティックハワイの原稿を書いていたのだった。その“ビーチボーイ”は「は?何で君がモエ ケアレの思い出を書いているんだ?」と不思議そうに尋ねた。見かけよりもやさしい口調だった。「私はモエ ケアレのハナイ(養女)なんです・・・。」すると彼は「ふーん・・・私は彼の同級生だよ。」と言った。
 確かMoeさんの同級生は3人しか生き残っていないと聞いていた。Blue,Dukie,そしてこの人がTerryだった。私は何人もの、Moeさんのことをよく知っている人、親しかった人に出会ってきたが“ビーチボーイ”時代の仲間に会えたのはひときわ感慨深いものがあった。
 “アニマル”というニックネームだった頃をよく知る人達は、エンターテイナーとして成功を収め、“ハワイ5-0”などのテレビドラマシリーズで俳優としても有名人になったMoeさんに、別の世界へ行ってしまったさみしさを持ちつつも、いざ思い出話しになると、たちまちガキ大将の時代にタイムスリップして楽しそうに話すのだった。私にとってはワイキキビーチの昔の様子を聞くこともできて、とても興味深いと同時に何よりもMoeさんといるような気持ちになり、うれしくなるのだ。思わず涙ぐんだ私をTerryは「オー、ベイビー」と言って抱きしめた。
 さて、Terryとの出会いはただ単に、Moeさんのクラスメイトに出会った喜びだけでは済まなかった。いろいろと話しているうちに、私がフラに関係していることを知ったTerryは意外な事を話し始めた。
 自分の母親はKumu Hula(クムフラ=“本来のフラ”の正しい継承、伝導者で現在はほとんど存在しない。)で、Moeさんが生前「自分の身内にフラを教えて欲しい」と頼みに来た、というのだ。私はすでに“ある偶然”から、Moeさんが他のあるLoea(ロエア=マスタークム)の所にも頼みに行ったことがある事実を知っていたので、再び私がこのような事実を知ることになり、驚きを隠せなかった。念のためにこの“身内”は私のことではない。Terryは私のKumuの名を尋ねた上で自分の母親の名を言った。そしてその名を私のKumuに伝えるよう、言った。
 私は彼の母親の名を記憶していた。Kauai系列のパフドラムのマスタークムで、特殊な人だった。そしてMoeさんから頼まれた彼女は、“自分のフラの資料は全て公の機関に渡してしまった”という理由で断った、というのだ。
 Moeさんがどのフラが正しいフラかを知っていて、その正しいフラを学ぶべきだと考えていたことを、この時再度痛感したのだった。Moeさんが「身内にフラを教えて欲しい」と頼んだ二人のマスタークムには共通点があった。
 Kauai系列のフラだった。しかし、後に詳しく説明するつもりだがこの“系列”というのはカウアイ生まれとか、カウアイに住んでいて教えているとか、カウアイ系列の誰かにワークショップや一時の間習ったものを教えている人、ただ身内から身内へ、は該当しない。“系列”という字の通り、フラにおいてのラインが繋がっていること、すなわち“正しい人”が“選んだ人”に“形を変えず”代々伝授している系図が存在することを指す。これが“本来のフラ”だ。
“本来のフラ”は今でいう“Kahiko(カヒコ)”だが、この“正真のカヒコ”は現在、表に出ている範囲では、ほぼ存在していない状態だ。
 話を本筋に戻そう。初めてTerryに会ってから数日後、まず彼は母親の事を私のKumuに話したかを聞いた。私はもちろん話したのでそう伝えた。
 その後、再び会えるのを楽しみに日本へ戻った私にハワイにいる主人から連絡が入り、“Terryが私に渡したいものがあるから今度ハワイに戻ったときに電話をするようにと連絡先を教えてくれた”ということだった。主人が“フラに関するものらしい”と言うのでまず受け取ってよいかをKumuに確認したが、たしか“公の機関に渡してしまった”ときいていたので不思議に思いつつ、ついに“それ”が私の手元に届く日が来た。
 茶色いA4サイズの封筒だった。「中を見てごらん」と言われ、紙の束を取り出した私に「母親のフラの資料だ、ほんの一部だけどね。ミカにあげるよ。」とTerryは言った。私は息をのんだ。紙を一枚ずつめくりながら、それがどれほど貴重で、特殊なもので、特別かを私は十分に理解していた。“手元に無い”と言われたものは何故か10年近くたった今になり、別の身内である私に何故か届けられた・・・・・。
 なんとも不思議な偶然、神様の仕業にまたもや私は、驚かされることになった。次から次へと嬉しい“出会い”が起こることに心からありがたい、と思う。しかし“出会う”ということはそれだけの数“別れ”もある。人生はよくできているものだ。
 最近、持病のあるTerryの体調があまり良くない・・・。まだ彼を呼ばないよう、Moeさんにお願いをするこの頃だ。
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# by ohanaokeale | 2007-02-15 00:00

第9話 夢

 巨大な水槽は何故かステージの上にあった。すると水槽の横に突然 Moe Keale が姿を現し、これからこの水槽に飛び込むという。Moeさんの髪型は昔の“Aloha Is”のジャケットの時の短いヘアースタイルだった。 
 Moeさんは水槽についているはしごをゆっくりと登り、息を大きく吸うと水槽の中にダイブした。とても一人の人間が飛び込んだとは思えない程の大量の水が、大きな水しぶきと共に溢れ出した。その瞬間、しぶきの真ん中から甲羅をこちらに向けた巨大な Honu (ウミガメ)が垂直に、高く、真上に飛び出した。見たこともない大きさの亀だった。
 びっくりした私は目が覚めた.....。夢だったのだ。そしてすぐさま頭に浮かんだのは、Moeさんに何かあったのではないか?ということだった。2001年3月、Moe Keale が最初の心臓発作で倒れて入院中のことだった。
 私は急いで飛び起きて電話をした。すると電話に出た人が「Moeさんは?!」
という私の慌てた問いかけにいきなり笑い出し「何てミカはタイミングがいいの、今、退院して家に帰り玄関を入ったところ!」と言うではないか。Moeさんによろしくと伝え、私は電話を切った。肩の力が抜けて心からホッとした。
 しかし、“ Moeさんが Honu になった”この夢についてしばらくの間、心にひっかかっていた私は、後に Moeさんに手紙を書いた。そしてその後この夢の話を数人の、ある特定の人だけに話した。彼らは、こう言った。
「そう、Uncle Moe は Honu になったんだ。ミカが夢に見た時にね。だから死ぬまでの一年間、それは仮の姿だった。」
「 IZ も Honu になったんだよ。彼のビーチ葬の時にもそれは巨大な Honu が突然海面に現れたっけ.....」そう言えばMoeさんのビーチ葬の時も、沖へ出たカヌーのうち、最も腕の確かなMoeさんの友人が舵取りをしていたカヌーがいきなりひっくり返り、皆が驚いた。あとで話を聞けば、急にパドルがコントロールできなくなったので海の中を見ると何と巨大な海亀がパドルをくわえていたというのだ。これらは誰の作り話でもない、事の意味については後に書こう。
 さて4月に入り、Moeさんはシェラトンワイキキホテルのステージに復帰した。2001年4月22日の夜、忘れもしない夜の出来事だった。
 Moe Keale はステージの中盤を過ぎたあたりでいつものように自分のステージに私を呼んだ。そしていつものように私に踊る歌を指示した。しかしひとつだけいつもと違うことが起きた。
プールサイドのステージ中央で曲が始まるのを笑顔で待つ私を紹介する Moeさんの声が「She is Mika.....Keale!」と低く、大きく響きわたった。驚いた私が思わずMoeさんの方を見ると、真剣で、深く暖かい眼差しが私に向けられていた。涙が出そうになったのでチラッと見ただけで私はすぐにまっすぐ前を見て、曲のスタートを待った。この時に踊った曲を私は思い出せない。演奏が始まり私は踊り出し、いつものように終わったあと“Moe Keale Trio”のところにお礼を言いに行った。いつもより時間がとても短く感じられた。公の場で、Moeさんが“Mika Keale”と紹介した初めての夜、だった。
 1997年にハナイ(養女)となってから、私も公ではその事実をとりたてて言わずにいた。Moeさんは私への手紙の宛名に“Keale”と書いて来たし、顔を逢わせる度にわざわざ「ミカ、名前は何ていうんだ?」と聞き、「私の名はミカケアレです。」と答えさせては豪快に笑いながら私の背中をポンポンと叩いては喜んでいたが、周りにはとても慎重であった。何故なら Moe Keale が特別な人であることで、私に対する嫉妬や中傷を警戒していたからだ。私は常に、何故自分をハナイする必要があったのか?自分は何をしなければならないのか?それらを理解することに頭と心を働かせることのほうが重要と考えていた。
 Moeさんが奇跡的に命をとりとめた後、復帰したステージで敢えてこのような場面を作った特別な意図を、その後に起きた様々な出来事を通して、答えが見えてきた今、理解することができる。
 ”モエケアレ トリオ“のところへ行った私にまずいちばん手前にいた Analu が何故か「オメデトウ!」と声をかけ、Mel は「ミカケアレサン!」と言った。そして最後に Moeさんは黙って私を抱きしめた.......。
今でもこの夜の出来事を、この光景を見ていた生徒と話すことがある。
もしこれから先、この瞬間にシェラトンワイキキホテルのプールサイドに居合わせた見ず知らずの人と Moeさんの話をすることがあったら、それはとても不思議な、感動的で素敵な偶然に違いない.........。
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# by ohanaokeale | 2007-01-15 00:26

第8話 Moe Keale Magic -3

 2007年、Moe Keale が他界して5年になる。あっという間に過ぎた5年だったが、この5年間に私はどれだけ多くの Moeさんにつながる人物に会わせてもらったことだろう。
 Ohana o Keale の“ Aloha の遺産”を伝えていく活動も、「 Aloha が世界のキーになる」と語っていたMoeさんの言葉を裏付けるように、それぞれの役割を持った人々が、まるで何か見えない力によって、次々と集められている状態が続いている。そして来年こそは、Moe Kealeとの出会いについて話していきたいと思っている。
 今年最後に、第4話のおしまいに書いた「ミカ、ステージの上で、Kealeだということを忘れるな!」というMoeさんの言葉にまつわる話しを約束通りしようと思う。
 2000年、それは私の最初で最後のコンペティションを経験したときの出来事だった。これを機に私のフラに対する考え、方向性は大きく変わっていった。
 そして、波風が立つことを恐れずに、信念を貫き、勇気を持ち行動したことは、そののちに、 Moe Kealeの養女として、彼の遺言である Aloha の遺産を伝えていく為に不可欠な“特別なフラ”を与えられるという好運につながった。
 自分で決め、起こしたと思っていた行動は、実は天によって決められていて、導かれていたのだったとつくづく感じている。“特別なフラ”については追々話していくつもりだ。
 さて、ハワイのハラウのフォーストラインとしてコンペティションに出場することになった私は、何と本番の2ヶ月と少し前に、日本に戻ったとき、駅の階段で転び捻挫をしてしまった。
 学生時代のバレーボールで2回、ミュージカルのシンガーダンサー時代にステージからの転落で1回、すでに3回も捻挫していた右足は、ついに4回目の捻挫をしてしまった。
 完治するまでに練習に参加しないわけにはいかない。普通に踊っているようにしながら、実はほとんど左足だけで踊るというプロの芸当を駆使し乗り切るしかなかった。強靭な足の筋肉を持っていたことはラッキーだった。
 しかし、このアクシデントに始まり、私の周りでは不可思議な出来事、納得のいかない出来事、とにかくありとあらゆる、どう考えても“良くない事”が起きていった。
 いろいろな意味で順調、平穏とは程遠い、何かがいつもざわついている様な状態の中で、私はひたすら頭と心を必死に整理しながら、何とか当日を迎えた。
 カヒコを踊る本番前のことだった。全員バックステージですでにラインナップをし、スタンバイしていたとき、 Moeさんが「ミカ、こっちに来なさい」と私一人だけを呼んだ。何故私だけ? とても厳しい顔をしていたので、何か注意されるのかと少し緊張しながら近くに行った。
 すると、私の耳元でこう言った。「ミカ、ステージの上であなたは Keale だということを忘れるな!」 Moeさんの顔見ると、私をじっと見つめ「いいな!」と念を押したので、「はい!」と力強くうなずいた。
 そして Moeさんは私に列に戻るよう指示をした。列に戻った私は、心の中で Moeさんの言葉を何度も繰り返し、ステージに向かった。このあとステージの上で私は不思議な体験をしたのだった。
 踊っている間中、私はずっと何かに背中を押されている感覚だった。それは体中で押し返さないと前につんのめりそうな勢いを持っていた。それはものすごいエネルギーを放っていた。とにかく前かがみにならないように身体を垂直に保ちながら踊り続けた。終わってすぐ、このことは第三者にも話した。
 振りや基本のステップに手こずっていた“ミカさんが頼り”と私の部屋を訪れることもあった後列の子達のパワーを感じたことなど今まで無かった‥。何が起きたのだろう? 何かが違っていた。
 最終日、私たちはカヒコ、アウアナで1位という結果だった。皆で歓声を上げ、抱き合って喜んだ。賞には程遠いと言い切っていた人がいたくらいだったので、盛り上がりは尚更だった。私自身、実はそう思っていた。
 その時又 Moeさんが私一人だけを呼び、耳元で今度はこう言った。
 「 Mika, This is … Keale Magic.」
 静かでしっかりとした口調だった。私はポカンとして Moeさんの顔を見た。そのあと、私は喜ぶ仲間や先生を見ながら一人だけ心はどこか遠くへ、とても遠くへ行っていた‥。
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# by ohanaokeale | 2006-12-24 00:01

第7話 トリック -1

 Moe Keale の他界後、私に起き続ける偶然は決して良い気持ちになるものだけではない。時には悲しい気持ちにさせられたり、憤りを覚える出来事に直面することも度々ある。
 しかし、これらも私には“天が知らせてくれたこと”“知る必要があって起きたこと”と受け止めている。
 2年程前の事になる。時間に余裕のあった私は、ビーチに出て少しのんびりしながら勉強をすることにした。親しくしていたレンタルボードのオーナーは、そんな時チェアやパラソルを提供してくれるので、忙しい時は留守番をしたり手伝いをしたりすることもあり、それもちょっとした気分転換で楽しい。
 その日、オーナーがちょうど本土から来ていた自分の友人を私に紹介してくれていた時だった。
 近くにいたその辺りの常連らしき地元の中年の女性が話を聞いていたらしく、私に「あなたはフラをやっているの?」と急にたずねてきた。はい、と答えると「あなたは日本で教えたりしているの?」。私がその返事をする間もなく、「日本人はこっちに来てチョコチョコっと習って帰っては教えているでしょ、しかも高いお金を取って。私たちはどれだけ練習していると思う?1回に何時間も週に2回は練習するのよ!それをちょっと練習しただけで教えて」どうやら怒っているらしい。
 日本人でもハワイ人でもいろいろな人がいるし、全てに関して一概には言えないだろう。とにかくこちらの話も聞かず、一方的に決めつけて失礼な人と思いつつ、黙って聞いていた。するとさらにあきれる言葉が出た。
 「私のクムなんて日本人に教える時はタダ!タダで教えているのよ、それなのに日本人はまったく!」すごい剣幕だった。
 さっきから話している特長のある彼女の横顔を見ながら、私はずっとどこかで見かけたことがある気がして、それを思い出そうとしていた。そして思い出した時に、偶然にも彼女のクムを知っていたことで“あきれた”のだった。
 間違いなく「タダ」で教えているというのはありえなかった。それこそ高いお金を払い、レッスンを受けている人を間接的に知っていたからだ。他に彼女の話から推測するならば「タダで教えていた日本人が、高いお金を取って日本で教えていた」という、そのクムのつくり話か何かだ。その女性が自分の意志でそんなことを言ったか、自分のクムの言葉でそう思い込まされているか、どちらにせよ、そこに「嘘」があることは確かだ。
 ハワイやアロハを利用した巧妙なトリックや嘘が、もっとも純粋でなくてはならない「フラ」を通してはびこっている事実を知るたびに、何ともおぞましい気分にさせられる。つまらない嘘は案外こんなひょんな偶然でバレてしまうものなのかもしれない・・・。
 私自身、相手が自分で言ったことの責任逃れのために“ぬれぎぬ”を着せられ、ひどいダメージを受けたことがある。すり替えたことから、どんどん合わなくなるつじつまを合わせるために重ねられる「嘘」によって受けた被害だ。
つくづく「嘘」に対して強い嫌悪感を抱いていて、ああ又か…という気持ちになる。嘘は人を欺き、何より自分を欺き、神をも欺くことなのだ。あらゆることに感謝の気持ちを持てる人間は、自分が生かされていることを大切に思い、「欺く」行為はしないものだ。
 この女性とは「アロハ!」と言って別れた。しかし、残念ながら彼女は真のアロハの意味を心で理解していないだろう。もちろん彼女のクムもだ。私は目の前に広がる海と空を眺めながら、ひどく悲しい気持ちになった。こんなに美しい自然のあるところで、どうしたら愚かな「嘘」をつく気持ちになれるのだろう?
 「ミカ、アロハは決してハワイだけのものじゃない。アロハの心を持っている人もいれば、持っていない人もいる。それは世界中どこでも同じだ。」と言った Moeさんの言葉が思い浮かんだ。
 裏を返せば、ハワイの人でもアロハがない人もいる、そしてまた世界中誰もが血や肌の色に関係なく持つこともできる、ということだ。現に Moe Keale の未亡人 Carol Keale も、いわゆる「ハオレ」と言われる白人だ。しかし、Aloha の意味を定義したあの Pilahi Paki が長年にわたり弟子として認めた人だ。アロハとはアロハである状態。心のあり方だ。
 そして私は悲しい気持ちから悔しい気持ちになり、これらの「嘘」に立ち向かう気持ちにすらなっていた。
 全ての自然と共存している私たちには、何か目に見えない不思議で大きな力が確かに私たちのまわりに存在し、その影響を受けていると感じる時がある。それらをどういう心で受け止めるかによって、その人の進む道が決まる。
 そこに人の目があるとかないとか、自分に都合が良いとか悪いとか、そういう部分ではないところで、見えない何かに対し誠実であること、偽りのないこと、私はそれが大切であると考え生きてきた。それは人間の心の中にある良心のようなものだ。 Moe Keale に出会い、そしてハナイされたことから、この良心こそ Aloha の心の深い意味につながっていることが、私の中でより明確なものとなっていったのだ。
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# by ohanaokeale | 2006-10-15 00:34

第6話 IZのお姉さん

 Moeさんの他界後、彼が私に会わせてくれた人々の中に、IZのお姉さん“Lydia Kauakahi”がいた。Makaha Sons の Moon の奥さんだ。リディアはMoeさんがもっとも可愛がっていた姪だった。Moeさんの最初の結婚の間、家の掃除、片付け、身のまわりのことを頼まれこなしていたのが、姪のリディアだった。
 彼女に初めて会ったのは、彼女とMoonの娘のベビーシャワーのパーティーに呼ばれた時だった。パーティーの途中、私はとなりの部屋でリディアが呼んでいるから行きなさいと、他の親戚に言われ、少し緊張しながら部屋に入った。
 とても体格の良い、IZに似た彼女が大きなソファーに座り、人なつっこい笑顔でこちらを見ていた。私が彼女の椅子の前に膝をつき目線を合わせると、彼女は私の目をじっと見てこう言った。
“ミカ、私にできることは何でもしてあげるからいつでも言いなさい!”
 私はすでに次々会う人が何か理由があることを十分理解していたし、そのことをMoeさんに心から感謝していた。
 彼女の力強くあたたかい言葉に、心から「ありがとうございます」と言った。
 彼女は、かつてダリル ルピヌイのハラウのダンサーでもあり、素晴らしいダンサーだった。クムとしてフラを教えていたこともある。
 彼女は、私たちがKauaiのアロハフェスティバルで踊った写真を見せると、「何を踊ったの?」と聞いた。その歌は彼女がクムとしてメリモナークにエントリーし、1位を取った歌と同じだった。そして「Uncle Moeが最も好きだった歌はね..」と言って、2つの歌のタイトルを教えてくれた。
 彼女がそのうちの1曲を歌いはじめると、私も詞を記憶していたので一緒に歌った。すると彼女はニコニコしながら「まぁ、きれいな声ね!」と言った。
 2005年1月25日、彼女はMoeさんのところへ旅立った。そう、もうすぐ1年が経つ。彼女はきっとまたMoeさんの身の回りの世話をニコニコしながらしているに違いない。
 Moeさんの Legacy of Aloha を守り、継続して行く活動は毎年不思議なミラクルと共にプロジェクトが進んでいる。
 私はリディアに、実は力になって欲しいことがあった。そのお願いを話すことなく、彼女は天に行ってしまった。
 しかし、この先、私は天に向かい願い事をするだろう。天はいつも私に目に見えない力を与えてくれている。祖先に祈り、その声を聞き、その魂を感じながら踊れることを心の底からありがたいと思う。
 どんなつらいことがあっても、常に私に立ち向かう勇気と正しい心を与え、守り、導いてくれている。
Ku’u Aloha e,
Ku’u Aloha e,
Aloha e, Tutu eo e
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# by ohanaokeale | 2006-01-14 22:48

第5話 Aloha Festival -2

 2001年、アメリカ同時多発テロの直後の Aloha Festival は、それは大きなダメージを受けた。委員会は、合衆国本土及び州からの中止命令と、ボランティア達の、これはハワイアンのための祭りなのだから、私たちの手で何としてでも実行したい、という声の板ばさみに合っていた。
 結局、中止となったパレードについては、この日までフロートの製作に、どれ程の時間と手間をかけてきたのかわかって欲しい、と涙ながらに訴える人々の姿を目のあたりにし、委員会の人はいろいろな意味で心を痛めていた。私は、もちろん生徒たちを危険な目に合わせたくなかったが、私が一人でも Ho’olaule’a で踊ることを決めると、結局8人が出演することとなった。
 翌年、2002年は、Moe Keale が亡くなったことで、私は彼に由縁の深いKauai島で踊ることを決めた。ここでもちょっとした偶然が起きた。
 この年は、まだMoe Kealeの甥達の音楽活動の準備が十分でなかったため、私の親友のミュージシャン、現在のHolunape のKama,Kanaia,Kekoa、そしてAlea のKale が私たちのために演奏してくれた。
 この年のKauai Ho’olaule’a のステージは、ダウンタウンに小さなステージが設置され、それは素朴な風情だった。
 ショーの始まる前にステージのMCが私たちのプロフィールの書かれた紙を持って、確認にやって来た。そのプロフィールには、私たちはMoe Kealeの「Legacy of Aloha」を守り伝えていくことが、活動目的のひとつであるハラウであること、それは私がMoe Kealeのハナイ(養女)であることによること等が書かれてあった。
 このメモに目を通していたMCの人は、突然読むのをやめると、驚いた顔をしてこちらを見た。目にはうっすらと涙が浮かび、震える声で、“ Moe Keale は、私のおじさんだ”と言った。彼はずっとチキンスキン、チキンスキンと言いながら、信じられないという様子だった。
 彼は毎年、MCをしているわけではなかった。お互いにこの偶然のめぐり合わせに驚きを隠せなかった。私にとってモエさんが亡くなってから2つ目のうれしい、偶然の出会いとなった。
 そして、やがてこの〝偶然〟が、実は〝必然〟だったことを知る日が来るのを、私は楽しみにしているのだ。この後も驚きの連続は繰り返されるが、追々語るとして、話をAloha Festivalに戻さなくてはいけない。
 2003年、私たちは Waikiki Ho’olaule’aで、〝 Moe Keale のトリビュート〟のショーをやることになった。このきっかけとなったのが、前年、2002年11月の Kaneohe にある『 The Lomi Shop Vaa 』 が主催の8時間に及ぶ 『 A Moe - ment to Remember 』 と題したモエさんの追悼コンサートだった。これについても、後に掲載する予定なので、楽しみにしていてほしい。
 さて、Waikiki Ho’olaule’a のステージで演奏をしたのは、生前のモエさんから私のことを聞いていた甥達、4人の Keale -Stephen,Michael,Bill,Mahealaniと、私と主人の大親友 Kekoa だった。
 モエさんの家から運び込んだ、白黒のモエさんが笑う巨大な写真をステージに飾り、モエさんに由来する Niihau島 の Kahiko で幕を開けた。
 そして、この年の Aloha Festival の親善大使である、ハワイアン音楽の重慎、Kahauanu Lake に敬意を表すため、彼の名曲『 Pualili Lehua 』 も入れながら、エンディングは、もちろん Moe Keale の Signature Song、『 Aloha Is 』を全員で歌った。
 一見、何事もなく、感動の渦に包まれて終わったかのようだったが、実はとんでもないハプニングが私に起きていた。
 私は、自分のソロに、モエさんが歌っていた『 Ka Ula Ili 』を選んだ。1番を踊った後のPaani(間奏)で、私は、あらかじめ用意していたスピーチをして、間奏の終わりと同時に再び踊りだすという演出を予定していた。スピーチをしようと、私が約束していた Kekoa のマイクのところに行き、彼の譜面台に目をやると、用意してあるはずのスピーチの書いた紙がなかったのだ! 英語だったこともあったし、とても大事なことを説明していたので、忘れたり、間違えたら困ると思い、暗記はせずに、紙を用意しておいたのだ。目が点になる、とはまさにこの事だった。
 しかし、Kekoa がマイクを渡してくれた瞬間、私はスッと顔を上げ、スラスラと群集を前にスピーチを始めた。妙に落ち着いていた。2番の始める前にピタリとはまり、マイクを置くと、何事もなかったかのように踊った...。
 ショーが終わってから、誰も何も言わないので、Kekoa にたずねると、ショーの始まる寸前に突然風が吹き、Kakoa の譜面台の紙が全部飛んで散らばってしまったというのだ。そして、慌てて散々した紙を1枚ずつ拾い集め、他のミュージシャンと同じ順番に並べると、枚数が確かに1枚足りなかったが、曲は全部揃っていたので、見つけられなかった紙はそのままになってしまったということだった。Kekoa は“ミカ、ごめんね”と申し訳けなさそうに言った。
 私は、とても不思議な感じがしていた。自分のスピーチしていた感覚をあまりよく覚えていなかった。結局、終わってから見つかったスピーチを書いた紙と、私のスピーチをビデオで確認すると、一字一句間違いなく、とても落ち着いてスピーチしていて、まさか紙が消えていたとは、誰一人気づかなかったわけだ。
 スピーチは、「 I'm Uncle Moe's Hanai daughter, and my Kumu Hula is Poni Kamau'u, a grand nephew of Iolani Luahine. And this is the song that Uncle Moe played for Anti Io to dance. So,this song " Kaula Ili " is very special to me. 」 という文章だった。
 無事終わったことにホッとしながら、私は夜空を見上げた。そして、もしかしたら、私は何か天に試されたのかなぁ? しゃべっていたのは、本当にわたしだったのだろうか? そんなことがふと、頭をよぎった...。と同時に、私は、このハプニングに、何となくうれしい気分すらしていた...。
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# by ohanaokeale | 2005-10-15 19:25

第4話 Aloha Festival -1

 毎年、この時期になると、Lono i ka makahiki のお祭り - Aloha Week で体験した出来事が思い出される。私が、今から15年以上前に、初めて Aloha Festival の催しを見てから、現在に至るまで、その中身はずいぶん様変わりしたように思える。
 最初に見たオアフ島、Downtown の Ho’olaule’a には、10あまりのステージが、Bishop通りの端から端までの両側に設置され、子供から年配まで、いくつものフラグループが踊っていたし、どのステージでもハワイアンの演奏が、どれも聞き逃したくなくて迷うほど行われていた。もちろん、Moe Keale も出演していた。
 パレードでは、遠くから風に乗って、数え切れない花の数で飾られたフロートの甘い匂いが、沿道で見る私たちを包み、なんとも言えない幸せな気分を誘い、作った人の手間を考えると感慨深いものがあった。
 ハワイ全島をあげて、3万人規模のボランティアによって支えられている、アメリカ唯一のこのイベントは、ハワイ独特の音楽やフラ、歴史、ハワイのルーツを、人々が再認識するためのお祭りだった。しかし、毎年見ているうちに、次第にハワイアンミュージックやフラの出演が少なくなり、規模が縮小していくのがわかった。

 さて、ついに私と生徒が、初めて Waikiki Ho’olaule’a に出演することになった2001年は、何とアメリカ同時多発テロの直後だった。私が、この出演に至るのには、ちょっとした事件がきっかけとなっていた。
 この数年前に、私はハワイのフラハラウの生徒として、 Waikiki Ho’olaule’a にゲスト出演する4名に選ばれ、張り切っていた。が、しかし、出演数日前、“ミカは日本人だからダメ”ということで、急遽、出演はキャンセルとなった。これには、様々な人間の欲と人間関係の駆け引きが絡んでいた。
 とにかく、私は、ステージの前に群がる黒山の人だかりの一番後ろで、くやしさと、悲しさで泣きながら見ていた。このあと、どういうことを私が考え、行動していったかは、私を知る人には想像がつくだろう。私は、誰にも、何の恨む心や、憎しみも持たなかった。自分が出られなかったこと自体を、悲しんでいたのではない。ただ、何かが違うような気がしたのと、自分は自分の考えを貫きたいと思った。そして、今、言えることは、どんな理由があるにせよ、これは Aloha の意味とはかけ離れた次元で起きた出来事で、それがフラや Aloha Festival を通じて起きたことが、私にはとても恐ろしいことに思えた。 

 話しは、2001年に戻る。この年の3月、Moe Keale は心臓発作で倒れた。そのため、毎年5月と9月に行っているクルーズ船の仕事を、この年はキャンセルした。そして、私はモエさんの代わりに旅に参加する機会をもらった。メキシコから11日間かけてハワイ諸島を巡る旅を終え、Aloha Tower の港に着くと、モエさんが迎えに来てくれていた。こんなことはめずらしく、私と同行した人も驚いていた。
 その頃住んでいた Kaimuki まで送ってもらうと、庭で、モエさんは私の肩に手を置き、“ミカ、クルーズはよかったか?”とやさしい眼差しでたずねた。私は、クルーズ中の楽しいだけではない経験に、いろいろ感想もあったが、モエさんが何か考えるところがあって、私を行かせたとわかっていたので、素直に一言“はい!”と答えた。すると、“そうか! 9月は一緒に行くか?”と言った。私は思ってもいない言葉に、驚きと喜びを隠し切れず、思わず顔がほころび、“はい!”と言いそうになったが、Aloha Festival の出演交渉中だったのを思い出し、モエさんに演奏を頼んでいたので、“あ...、9月は Aloha Festival が...”と言いかけると、“そうだ!そうだ! Aloha Festival の方が大切だった”と、きっぱりと言ったので、この言葉に安心した。
 Aloha Festival Ho’olaule’a 出演に至るまで、最初に頼りにした伝手では事が進まず、主人が自分の仕事の合間をぬって、私たちの考えや目的を理解してもらうため、どれほど尽力を尽くしていたか、モエさんはわかってくれていた。

 しかし、準備を進めるうちに、2つの事件が起きた。そのひとつ、“ Aloha Festival は、お金にならない”という当時のフラの先生の言葉に、私は、今まで抱えていた様々な疑問の答えが出たような気がした。私は、変わりつつあるフェスティバルの様子を見ていたし、
コンペティションに力を入れる方が、生徒も集まると、次第に Ho’olaule’a のステージには出るハラウが少なくなっていることも、委員会の人から聞いてはいたが、私の考えとは違っていたし、同時にひどくさみしい気持ちがしていた。
 そして、次に起きた事件は、モエさんが、シェラトン出演の夜、出番前に“ミカ”と呼んだので、そばに行くと“ミカ、Aloha Festival で演奏できない...”と、ポツリと言ったのだ。が、今までのモエさんと明らかに違う、とても妙なことがひとつあった。いつものモエさんは、私の目をジッと凝視するのに、何故か、全く目を見ず、横を向いたままだった...。私は何かおかしいな? と感じたが、“わかりました”と言った。そして、代わりのミュージシャン探しを、モエさんが自分のバックミュージシャンの一人に指示し、私もよく知っているその彼は、“ミカ、ボクに任せて!心配しないで。”と言った。私は、とても不可解なスッキリしない気分だった。
 そしてその後、私は、初めての Aloha Festival のステージを終えたら、ハラウを離れ、今までと違うフラの道を歩むこと、自分の信じる道を進んで行くことを心に決めた。ひとつだけ肝に銘じたのは、たとえ、何が起きても Moe Keale が、私をハナイしたことに恥じないようにということだった。しかし、正直言って、もっと深いところで、その意味と理由を自覚することになるのは、ずっと先のことだった。この時の私の覚悟は、何か暗示していたかのように、この後とんでもないことが起きた。

 この2つの事件から、私は、モエさんの今までに見せたことのなかった様子に、疑問を抱きながら過ごしていた。その謎が解けないまま、2002年4月15日、モエさんが亡くなってしまったのだ。電話を取ったのは、主人だった。次の瞬間、私は全身の力が一気に抜け、泣き崩れた..。それからしばらくして、私の頭に浮かんだのは、初めてモエさんが私に見せた、目を見ずに弱々しく、“ミカ、演奏できない...”と言った時の横顔だった。何か、私が悪かったのだろうか? これからの私にとり、何も困ることはないのに、何故か、私はどうしようという気持ちだった。まるで、迷える子羊の心境だった。私はどうしたらよいのですか? 毎日のように問いかける日が続いた。そして、ある日見た夢は、第1話へつながるのだ。
 やがて、モエさんが、苦渋の決断をせざるを得なかった不可解な事件のカラクリ、裏は全て明らかになり、私もそれを知ることとなった。その裏で起きていたことで、モエさんが苦しめられていたことは、間違いなかった。何よりも、あの時のモエさんの横顔が目に浮かび、私は涙が出た。

 Moe Keale が亡くなって5ヶ月後のあるとき、Moe Keale の未亡人、キャロルが言った。“ミカ、これから踊るときは、必ずモエのことを心に踊るのよ、いいわね!”。私はこの言葉を聞いて、ふと、ある記憶が蘇えった。“ミカ、ステージの上で、Kealeだということを忘れるな!”。2000年11月のモエさんの言葉だった。
 この時の出来事については、後に『 Moe Keale Magic -3 』で話すことにしよう。次回は、『 Aloha Festival -2 』。
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# by ohanaokeale | 2005-09-15 15:39

第3話 Gift

 その日は、当時住んでいたKaimukiの家に到着するとシャワーも浴びず、リバティハウスのサンデージャムにMoe Kealeが出演するというので真っすぐ向かった。
 ショートパンツにタンクトップ、ほとんどメークもしていない寝ぼけ顔の私は、Moeさんに挨拶だけすると柱のすみに隠れるようにしてコンサートの始まりを待った。着いてすぐMoe Kealeの歌を聴けるなんてツイている!とうれしかった。用意された椅子は全て埋まっていて立ち見の人も大勢いた。
 ショーが終盤にさしかかるとMoe Kealeが突然「日本人のダンサーを紹介する」と言った。まさか?この格好で?と思った瞬間「ミカ!」と呼ばれた...。
 私は”Sweet Pikake Lei”を踊った。Moeさんに呼ばれた時は必ず「ミカ~を踊りなさい」と言われた歌を踊るのが常だった。そして私はいつも少しとまどいながら、それが練習不足と解かっていても、久しぶりで覚えているか不安でも「はい」と言って踊るのが当たり前になっていた。しかし不思議なことに踊り始めると、何故かいつもちゃんと最後まで問題なく踊れた。
 観客の拍手に迎えられ踊り始め、中ごろになった時、一番前で座ってジッと見ていた日系のおじいさんが急に立ち上がった。そして自分の首にかけていたLeiをはずし、踊っている私にかけようとした。私はとっさに振り返り、後ろの少し高くなったステージで唄うMoe Kealeの顔を踊りながら見た。Moeさんは“もらいなさい”という仕草を唄いながら顔で私に合図した。私は踊るのをやめ、Leiをかけてもらいお礼を言ってまた続きを踊った。
 もう何年前のことだろう?Macy'sがLibaty houseの頃なんて...。ずっかりドライフラワーになった真っ赤なシガーフラワーのLeiは今でももちろんMoe Kealeの写真の横に並んで飾られてある。こういう思い出もMoe Kealeが私に与えてくれた貴重な体験のひとつだ。そしてそれらひとつひとつが全て私の踊りに何らかの影響を与えていることは言うまでもない。あのLeiをくれたおじいさんはどうしているだろう............。
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# by ohanaokeale | 2005-07-15 21:52

第2話 Moe Keale Magic -2

 ここで語ることは時期が前後していて、必ずしも起きた順番になっていないことを言っておきたい。従って1話ずつ完結している。しかし話しが進むにつれ、全ての出来事がリンク、つながっていることに気づく人もいるだろう。そして果たして何十話、何百話書くことになるのか、私にもわからない。
 2004年10月30日オアフ島マノア地区は40年ぶりの豪雨に見舞われストリームが氾濫、道路は川状態になり、約30台の車が流されマノア地区の家々は水浸しになった。この洪水で最も被害の大きかったのはハワイ大学だった。構内の空調の元がやられ、図書館の本は泥水に浸っただけでなく、湿気であっという間にカビだらけになり異臭を放ち、再開の目途もたっていない状態だ。古いハワイの地図類はほとんど壊滅的で、全ての被害総額は8~10億ドルと言われている。
 さて、川と化した道路で流された車の1台になんと!うちの車も入っていた。アメリカ本土東海岸からわざわざハワイに持ってきて14年間大切に乗っていた主人の思い出深い愛車はついに廃車となってしまった。ここまではとても悲しい話しだった。
 数日後、レンタカーに乗っていた私たちは前向きに考え、車を買い替えることにした。主人はディーラーに行くにあたり、私にアメリカの車のセールスマンについてアドバイスをした。ディーラーに着き車を見始めたとたん、すぐさま飛んできたセールスマンに私はアドバイスされたとおり「ちょっと見ているだけ」と買う気のない様子であしらった。しばらく見て回ると、次にやってきたセールスマンと何故か主人は自然に会話を始め、ある1台を試乗することにした。ハイウェイを走らせながらサーフィンのボードをどう積むかの話しになった。すると、もう60歳になるというセールスマンもサーフィンをするという。話しが進み、共通のビーチボーイ友人がいることがわかり、彼は趣味でウクレレを弾き、ハワイアンを歌うという。それならとMoe Kealeを知っているか聞いてみた。セールスマンはとても感慨深げに「彼は本当にすばらしかった。惜しい人を亡くしたよ...」と語った。そして私が「実は私はMoe Kealeのハナイドーターなんです」と言ったとたん、彼は「Oh! My Goodness!」と叫んだ。「Moe Kealeの亡くなる数ヶ月前、シェラトンに演奏を聴きに行き、終わったあと彼と話しをした。そのときにMoe Kealeが日本人の養女がいると言っていたんだ。それがあなたか!」こう言った。運転していた主人も私も思わず耳を疑った。初めて会ったセールスマンと主人と私の3人はこの偶然に感動し、興奮したまま試乗を終え戻ってきた。もちろん面倒くさい値段交渉をすることなく購入に至ったことはいうまでもない。そのまま乗って帰ることになった車の中、パーキングから道に出たと同時にラジオからMoe Kealeの歌が流れてきた。今まで何回も起きているこの"何かのメッセージ"を聴きながら、私たちは目を潤ませていた。Moe Kealeは最初の心臓発作から復帰して亡くなるまでの1年間にも後々の複線となる行動をいくつも起こしていた。そのたびに単なる偶然ではなく、Moe Kealeの特別なManaがそこにあることを皆が感じていた。
 ハワイの自然に宿るというManaも真のAlohaもハワイアンだけのものではないことをMoe Kealeは言っていた。嘘やエゴ、虚栄、おごりのあるところにManaは無い。ManaはPonoのあるところにしか宿らず、神を欺く行為の存在するところにそれらは無い。これは人間が忘れてはいけない真のハワイアンの英知でもある。
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# by ohanaokeale | 2005-05-14 21:02

第1話 Moe Keale Magic -1

2002年4月15日のMoe Kealeの他界から約1ヶ月後、私は彼の夢を見た。「ミカ、急ぐな!」いつもそうだったように、Moe Kealeは言い聞かせるような語り口でジッと私を凝視していた。「何を?」私が問いかけると同時に彼の顔は消えた...。
 私の見る夢はいつも映画を観ているように登場人物やストーリーがリアルで、夢で見たことと同じことが必ず起こることを私の家族や一部の生徒はよく知っている。
 私の身の回りに不思議な偶然が続くようになったのはこの夢のあとからだった。と同時に、私は生前のMoe Kealeの言葉のひとつひとつを思い返し、起きた出来事につなぎ合わせていくようになった。
 スタジオの初めてのHoikeが約1ヶ月後に差し迫った2002年6月のある日、私は1本の電話を受けた。7月下旬に毎年ハワイで開催されているウクレレフェスティバルの出演依頼だった。アマチュアのウクレレグループの演奏にフラで華を添えるものだったが、依頼主のグループリーダーはプロにアマチュアとの共演をお願いするのは失礼なのですが、とやたら恐縮していて、初めからダメもとで電話したと言う。
 Moe Kealeは生前このフェスティバルにウクレレのマスターとして特別ゲストで出演していた。彼は主催者のRoy Sakuma氏の依頼に、あるときから日時だけを連絡するように言い31年間出演していた。
 普通ウクレレフェスティバルにフラが登場することはあまりない。しかし私はこの電話の後、第1回Hoikeの最終準備真っ只中にも関わらず、踊る歌のリサーチにすぐハワイへ飛んだ。
 7月28日、自分の出演時間が近くなり、カピオラニバンドスタンドのバックステージにスタンバイしているときのことだった。真っ白なロングドレスに身を包んだ女の人が、2人の大きな男性に両側から寄り添われ、まっすぐ私の方へ向かって歩いてきた。
お互いの顔がわかる距離になり、Moe Kealeと30年間連れ添っていた未亡人Carolだということがわかった。私たちが互いに駆け寄り1分位抱き合ったあと、「Hi! Sister」と彼女の脇に立っていた大きな男性が私に笑顔で声をかけてきた。
2人の顔と体型を足して2で割るとMoe Kealeそっくりだった。が、はじめて会った2人がなぜ"Sister"と声をかけたのだろう?彼らはそれぞれMoe Kealeのお姉さんとお兄さんの子、つまり甥だった。世の中に知られているIZのいとこだった。この年主催者は Moe Keale の今までのウクレレフェスティバル出演の功績を讃え、表彰した。その受賞で3人が招待されていた。私たちは積もる話しもあったが、お互いの出番のあとカピオラニパークのピクニックシートでおち合う約束をしてその場を離れた。
 この偶然の出会いに私は身体が震えた。しかも、あとで甥達の口からMoe Kealeが生前私について彼らに語っていた事実を聞いた。Moe Kealeが私をHanai(ハナイ)したというのは私の作り話と言いふらされたりもしたがこれまでジッと我慢して口を閉ざしてきた。私は思わず「Moeさん!」と天に向かい叫んでいた。涙がポロポロとこぼれた。そしてやはり神様は全てを見て知っていることに感謝した。
 翌年から彼ら甥達と私は"Ohana O Keale"としてMoe Kealeの代わりにウクレレフェスティバルのステージに立つことになった。これは全てほんの、ほんの始まりだった。


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# by ohanaokeale | 2005-04-11 19:00