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第4話 Aloha Festival -1

 毎年、この時期になると、Lono i ka makahiki のお祭り - Aloha Week で体験した出来事が思い出される。私が、今から15年以上前に、初めて Aloha Festival の催しを見てから、現在に至るまで、その中身はずいぶん様変わりしたように思える。
 最初に見たオアフ島、Downtown の Ho’olaule’a には、10あまりのステージが、Bishop通りの端から端までの両側に設置され、子供から年配まで、いくつものフラグループが踊っていたし、どのステージでもハワイアンの演奏が、どれも聞き逃したくなくて迷うほど行われていた。もちろん、Moe Keale も出演していた。
 パレードでは、遠くから風に乗って、数え切れない花の数で飾られたフロートの甘い匂いが、沿道で見る私たちを包み、なんとも言えない幸せな気分を誘い、作った人の手間を考えると感慨深いものがあった。
 ハワイ全島をあげて、3万人規模のボランティアによって支えられている、アメリカ唯一のこのイベントは、ハワイ独特の音楽やフラ、歴史、ハワイのルーツを、人々が再認識するためのお祭りだった。しかし、毎年見ているうちに、次第にハワイアンミュージックやフラの出演が少なくなり、規模が縮小していくのがわかった。

 さて、ついに私と生徒が、初めて Waikiki Ho’olaule’a に出演することになった2001年は、何とアメリカ同時多発テロの直後だった。私が、この出演に至るのには、ちょっとした事件がきっかけとなっていた。
 この数年前に、私はハワイのフラハラウの生徒として、 Waikiki Ho’olaule’a にゲスト出演する4名に選ばれ、張り切っていた。が、しかし、出演数日前、“ミカは日本人だからダメ”ということで、急遽、出演はキャンセルとなった。これには、様々な人間の欲と人間関係の駆け引きが絡んでいた。
 とにかく、私は、ステージの前に群がる黒山の人だかりの一番後ろで、くやしさと、悲しさで泣きながら見ていた。このあと、どういうことを私が考え、行動していったかは、私を知る人には想像がつくだろう。私は、誰にも、何の恨む心や、憎しみも持たなかった。自分が出られなかったこと自体を、悲しんでいたのではない。ただ、何かが違うような気がしたのと、自分は自分の考えを貫きたいと思った。そして、今、言えることは、どんな理由があるにせよ、これは Aloha の意味とはかけ離れた次元で起きた出来事で、それがフラや Aloha Festival を通じて起きたことが、私にはとても恐ろしいことに思えた。 

 話しは、2001年に戻る。この年の3月、Moe Keale は心臓発作で倒れた。そのため、毎年5月と9月に行っているクルーズ船の仕事を、この年はキャンセルした。そして、私はモエさんの代わりに旅に参加する機会をもらった。メキシコから11日間かけてハワイ諸島を巡る旅を終え、Aloha Tower の港に着くと、モエさんが迎えに来てくれていた。こんなことはめずらしく、私と同行した人も驚いていた。
 その頃住んでいた Kaimuki まで送ってもらうと、庭で、モエさんは私の肩に手を置き、“ミカ、クルーズはよかったか?”とやさしい眼差しでたずねた。私は、クルーズ中の楽しいだけではない経験に、いろいろ感想もあったが、モエさんが何か考えるところがあって、私を行かせたとわかっていたので、素直に一言“はい!”と答えた。すると、“そうか! 9月は一緒に行くか?”と言った。私は思ってもいない言葉に、驚きと喜びを隠し切れず、思わず顔がほころび、“はい!”と言いそうになったが、Aloha Festival の出演交渉中だったのを思い出し、モエさんに演奏を頼んでいたので、“あ...、9月は Aloha Festival が...”と言いかけると、“そうだ!そうだ! Aloha Festival の方が大切だった”と、きっぱりと言ったので、この言葉に安心した。
 Aloha Festival Ho’olaule’a 出演に至るまで、最初に頼りにした伝手では事が進まず、主人が自分の仕事の合間をぬって、私たちの考えや目的を理解してもらうため、どれほど尽力を尽くしていたか、モエさんはわかってくれていた。

 しかし、準備を進めるうちに、2つの事件が起きた。そのひとつ、“ Aloha Festival は、お金にならない”という当時のフラの先生の言葉に、私は、今まで抱えていた様々な疑問の答えが出たような気がした。私は、変わりつつあるフェスティバルの様子を見ていたし、
コンペティションに力を入れる方が、生徒も集まると、次第に Ho’olaule’a のステージには出るハラウが少なくなっていることも、委員会の人から聞いてはいたが、私の考えとは違っていたし、同時にひどくさみしい気持ちがしていた。
 そして、次に起きた事件は、モエさんが、シェラトン出演の夜、出番前に“ミカ”と呼んだので、そばに行くと“ミカ、Aloha Festival で演奏できない...”と、ポツリと言ったのだ。が、今までのモエさんと明らかに違う、とても妙なことがひとつあった。いつものモエさんは、私の目をジッと凝視するのに、何故か、全く目を見ず、横を向いたままだった...。私は何かおかしいな? と感じたが、“わかりました”と言った。そして、代わりのミュージシャン探しを、モエさんが自分のバックミュージシャンの一人に指示し、私もよく知っているその彼は、“ミカ、ボクに任せて!心配しないで。”と言った。私は、とても不可解なスッキリしない気分だった。
 そしてその後、私は、初めての Aloha Festival のステージを終えたら、ハラウを離れ、今までと違うフラの道を歩むこと、自分の信じる道を進んで行くことを心に決めた。ひとつだけ肝に銘じたのは、たとえ、何が起きても Moe Keale が、私をハナイしたことに恥じないようにということだった。しかし、正直言って、もっと深いところで、その意味と理由を自覚することになるのは、ずっと先のことだった。この時の私の覚悟は、何か暗示していたかのように、この後とんでもないことが起きた。

 この2つの事件から、私は、モエさんの今までに見せたことのなかった様子に、疑問を抱きながら過ごしていた。その謎が解けないまま、2002年4月15日、モエさんが亡くなってしまったのだ。電話を取ったのは、主人だった。次の瞬間、私は全身の力が一気に抜け、泣き崩れた..。それからしばらくして、私の頭に浮かんだのは、初めてモエさんが私に見せた、目を見ずに弱々しく、“ミカ、演奏できない...”と言った時の横顔だった。何か、私が悪かったのだろうか? これからの私にとり、何も困ることはないのに、何故か、私はどうしようという気持ちだった。まるで、迷える子羊の心境だった。私はどうしたらよいのですか? 毎日のように問いかける日が続いた。そして、ある日見た夢は、第1話へつながるのだ。
 やがて、モエさんが、苦渋の決断をせざるを得なかった不可解な事件のカラクリ、裏は全て明らかになり、私もそれを知ることとなった。その裏で起きていたことで、モエさんが苦しめられていたことは、間違いなかった。何よりも、あの時のモエさんの横顔が目に浮かび、私は涙が出た。

 Moe Keale が亡くなって5ヶ月後のあるとき、Moe Keale の未亡人、キャロルが言った。“ミカ、これから踊るときは、必ずモエのことを心に踊るのよ、いいわね!”。私はこの言葉を聞いて、ふと、ある記憶が蘇えった。“ミカ、ステージの上で、Kealeだということを忘れるな!”。2000年11月のモエさんの言葉だった。
 この時の出来事については、後に『 Moe Keale Magic -3 』で話すことにしよう。次回は、『 Aloha Festival -2 』。
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by ohanaokeale | 2005-09-15 15:39