第20話 BeachBoys -2

これを読む人は、ぜひ第10話を読んでいただくと今回の話しが、よりわかりやすいと思う。

2013年8月、ハワイを発つ10日程前にあるビーチボーイの訃報が入った。私は急遽、予定を変更し、ビーチ葬に出席することに決めた。往年のビーチ ボーイ、Terry との出会いと私の関係は第10話の通りだ。ビーチに通い、自らも楽しみながら観光客にサーフィンを教え、カヌーのキャプテンとしてアウトリガーカヌーを漕ぎ、古き良き時代のワイキキビーチに暮らしたビーチボーイの1人だ。そして、父モエ・ ケアレの古い友人の1人だ。ここ2年程は体調がすぐれず、ビーチで顔を見ることはなかった。私は、2ヶ月に一度は必ず電話をして、留守電にメッセージを残したり、ちょうど1ヶ月前には「ミカ、自分はだいぶ弱っている、、」と少し弱音を吐いていたが電話で話しをしたところだった。いつも、私の電話に喜んでくれ、ありがとうと言っていた。

あるビーチボーイから Terry が亡くなったことを聞いた時に、私はすぐに思い出したことがあった。もし自分に万が一のことがあったら、友人でカヌーキャプテンのレジェンドの一人であるBlue Makua Jr. にカヌーを出してもらい、自分の遺灰を海に鎮めて欲しい、というTerryの言葉だった。私はBlueの所属するビーチスタンドへ行き、オーナーと話しをした。Terryの訃報は、もう耳に入っていた。私の話しを聞き、オーナーは、ほぼ引退していたBlueにその場ですぐに電話をかけた。そして、しばらくの話しのあと、オーナーはBlueがカヌーを出す日が決まったら、私に教えてくれると言った。

ビーチ葬の朝、いつもよりずっと早起きしてDuke'sのレストランの海に面した所に行くと、受付と飲み物とフルーツ、スナックのテーブルが用意されていた。身内とそれほど多くない友人の小さな集まりだった。以前、面識のあった若い、たぶん再婚の奥さんは私と主人の顔を見ると、駆け寄ってきて、私たちは黙ってしばらくの間、抱き合った。彼女はBlueのカヌーが出る時に、私にカヌーのパドルをして、と言ったが牧師や身内で席はうまり、私はビーチからカヌーが沖へ出るのを見守った。

Terryがずっとミカに会わせたい、と言っていた妹はとうとう、来なかった。亡くなる前までいろいろあったと聞いた。現代のものとは全く別物の、原初で本来のフラを継ぐ役目を持った家系の人たちは、とても厳しい環境と時代を生きて来た。妹とTerryに何があったかはわからない。私は彼がビーチで話す人の中で、Aliiの庇護の元、ハワイ王国のKapuを守り伝える家系同志として、私のクムを知っていた唯一の人、だったことを、決して忘れないだろう。そして、私にできること、しなくてはならないことは何かについて、改めて考えさせられた。

Terry の亡くなったあとから、海に出るたびに大きなホヌを見かけた。私があるビーチボーイにTerryかな?というと、そのアンクルは最近亡くなったもう一人、ジョンジィーの名を口にした。

私のお葬式の参列の回数は、日本でのそれをはるかに上回るようになった。親しかったNiihauの父の姪、Ileiの時は、泣きながら親戚のアンティたちと、受付もやった。ふと、波を見ている時に、胸が苦しくなり、目頭が熱くなることがある。私にとってここは、決して楽しいだけの場所ではないのだ。
いずれにせよ、何かの縁で、深くこの場所と関わっていることは間違いない。それは天が決めたことで、たとえ辛いことがあっても、受けいれて生きて行くしかないのだ。
[PR]
# by ohanaokeale | 2013-09-15 09:37

第19話 Blue Makua Jr.

 私の心にあまりに深く、衝撃的に刻まれた出来事は、2009年から私の筆をすっかり止めてしまっていた。間違いなく特筆すべき、モエ・ケアレと同様に私に大きな影響を与え、深い関係にあった、二人の“真のハワイアン”について語れる“その時”を、私は時の力を借りてひたすら待っている。 
さて今日は、あるビーチボーイから聞かされた、ビーチのレジェントがまたひとり引退した、私にとってもワイキキにとっても寂しい出来事について話そうと思う。
彼の名は、ブルー・マクア・ジュニア。古き良きワイキキの海を知り尽くした数少ない本当のビーチボーイの生き残りだ。彼の名が刻まれたアウトリガーカヌーを、白髪をなびかせながら、背筋をピンと張り、舵を取る彼の姿はカヌーと一体化して、風格が漂い、見事に自然と調和したまさにひとつの“美しい海の景色”だった。
それは、彼の心が自然と近いものであったからこその輝き、だった。
私が初めてブルーと対面したのは、私をハナイしたモエ・ケアレの親友のひとりであった彼を、訪ねたからだった。
初めて会う私に、彼は無口だった。それは当然と思えた。私がモエ・ケアレの養女だと何の証拠があるだろうか。身分証明があるわけでもない。しかし、私は信じていた。本当に自然と共に生きている人間は、野生の動物が言葉を交わさずとも相手を敵と見分けたり、心を読み取ることができるように、もし彼がモエさんの親友で本当のビーチボーイならきっと解るにちがいない、と信じていた。
実際、会えただけでも幸せだった。
とにかく、ブルーに会うために海へ行き、私はカヌーに乗ることにした。
多い時は一日に5回、15往復漕いだ。体中が筋肉痛になったこともあった。
初め、カヌーキャプテンであるブルーは私を4番手の漕ぎ手の位置に指示した。思いのほか、パドルを漕ぐのは楽しかった。ワイキキのアウトリガーカヌーは沖まで漕いで出るとカヌーズというサーフポイントからサーファーより優先権を持ち、波をつかまえて大きなカヌーがまるでサーフィンをするのと同じにしぶきを上げて波をすべって行くのが醍醐味だ。しかし私は、何故かパドルを漕いでいる時にこの上ない喜びと楽しさを感じ、血が騒ぐとはまさにこの事、だった。私はあっという間に虜になっていた。毎回ブルーとは会話らしいものもなく、だまって舟に乗り、ひたすら漕ぐ、そんな時間が過ぎたある日、私はブルーから二番手を指示された。舵取りをするキャプテン、サブキャプテン、次に漕ぎ手のリーダーとなる先頭、後に他の漕ぎ手が配置される。
私は思わぬ昇格?にますます張り切って漕いだ。
すると、後ろの方から「2番目、もっとリラックス!」と叫ぶブルーの声が聞こえ、私は思わず苦笑した。でも何だか少し嬉しかった。観光客の乗り手が足りない時に人員として呼ばれるように、常に砂浜で待機していた私は1日中、座っていたこともあった。
今思えば、ブルーの目にはどう映っていたのだろう。さて、またある日のことだった。
アシスタントがブルーの準備の間に、配置指示をしていた。白人の大きな男性が先頭、私は二番手だった。体が小さいとやはり先頭には配置されないのだろうか。
そこへブルーがやってきて、突然「違う、違う。ミカが先頭だ。」と訂正した。
私は条件反射的に「Yes!」とすぐさま、このチャンスを逃すものかという勢いで、一番手についた。
タイミング良く、パドルを常に正確に、リズムを持ち漕ぐ役目の先頭は、カヌーが波をつかまえるとしぶきを正面からもろにかぶるので、3往復すると頭から全身びしょぬれだった。
しかし気分は爽快、初めての経験だった。
そして岸に戻りシャワーを浴び、ブルーと砂浜に腰を下ろして、初めて会話と言える時間を過ごすこととなった。
ブルーは、自分のファミリーがマウイの出身で自分は100%のピュアハワイアンであること、昔の仲間のこと、ワイキキはとても変わってしまったこと、などを語り始めた。
私も海にのしかかるように立ち並ぶホテルや高いビルが好きではないことなどを話すと、ブルーは今までに見せたことのない笑顔で「You are Hawaiian!」と言うとガハハー、と笑った。モエさんがそうだったように、その目は真剣だった。
彼が単純に私がビルが嫌い、ということだけでそう言ったのではないことを、私は感じていた。そこには何も話さずに、時を共有してきた中で、心の会話をした、私達だけの間に生まれていた何かがある、瞬間だった。
私は意図的にそういう方法を取ったのではない。自然に、思いを胸に取った行動は、彼にとって昔ながらのハワイアンウェイ=本来のハワイアンのやり方、だったのかもしれない。
ワイキキの変貌と共に、ビーチボーイの在り方も変わってきている。ビジネス優先、合理化、そして何かを見失う。現代の世の中と同じだ。
本来のビーチボーイは、海という自然は自分たち人間も自然の一部であり、そこに同じ生きるものとして存在する、属しているもの、という感覚を持っている。
都合良く、美化して、良いとこどり、をする現代人の感覚とは違う。
もっと真面目で真剣だ。
白い砂をどこからか運んで来て、ビーチを作り、その砂が徐々に沖へ流れ、海底に沈む。大きな掃除機で吸い上げてはビーチに戻す、そんな繰り返しも納得しているはずがない。
私は、沖に浮かぶ巨大な掃除機を目にした時、父モエ・ケアレを含め、多くのこの海に眠るビーチボーイやハワイアンたちの遺灰が、砂と共にビーチに戻され、その上で海の生き物のことなどおかまいなくオイルをテカテカに塗ったひと達が寝そべる光景に背筋がゾッとする思いでいた。
ブルーがしだいに海に姿を見せなくなったのは決して、年齢や健康が理由などではなかった。去年、久しぶりに会った時、彼は「もう誰もいなくなった、若い連中はわかっていない」とつぶやいた。
一人、あちこちの島を旅していたらしい。引退して他島へ行った仲間もほとんどが他界しているだろう。仲間を思い、一人、心の会話と整理の旅だったのだろう。
ブルーの心によぎるものはどれほど深く、寂しさはとうていはかり知れるものではない。
自然と近い心で生きている人は、現代では本当に少ないだろう。自然に特別な場所などない。ただ、目の前にあるものに気がつかない、という悲しい心があるだけだ。
ブルーと話したことがある。機械から得られるものが自分の信じられるものの全てになってしまっている人間には、もはや自分が自然の一部である感覚など、皆無に等しいだろう。
人間は自然を破壊することはできても、月や太陽、海や陸、人間よりはるかに多い種類の他の生き物を作り出すことなどできないのだ。
ブルーの乗るカヌーが見られなくなったワイキキの海を眺めながら、波の無いある日に
バーのカウンターに一人座るブルーに会ったことを思い出した。
彼は私に隣に座るように言うと、ビールを飲むか聞いた。
初めて、昼からビールを飲み、そのまま黙ったまま、私たちは2時間以上過ごした。そこには、あの“心の会話”があった。
無口で、一言は重く、思いの深さと意味があり、ときどき最高の笑顔で豪快に笑い、低くよく響くハワイ語なまりの英語。その姿は、どこかモエ・ケアレと重なる。
そうだ、行きつけのバーにブルーを探しに行ってみよう。そう思いつくと、ほんの少し明るい気持ちになれた。

…と、この話しはここで終わるはずだった。ところが意外な展開のつづきが待っていたのだった。
これを書き上げてから数日後、私が日本へ戻る前日の最後の一日、のことだった。
ブル―のカヌ―に乗る機会が無くなったここ最近の私は、ブル―の次世代のキャプテンの別のカヌ―に乗るようになっていた。漕ぎ手の足りない時に助っ人として呼ばれるのは相変わらずだった。さて、Kauai(カウアイ)島でNiihau(ニイハウ)の家族と過ごし、オアフに戻った昨日、機内の窓から山側に一瞬のダブルの虹を見た。今朝も家の窓から虹を見た私は、すっかり気分を良くしていた。それは連日にわたり“良い虹”だったからだ。
パドルを手に海に行くと早速、めずらしい日本人の女性2名の助っ人として、呼ばれた。おまけに日本人のインストラクタ―と紹介され、彼女たちに基本的なことを伝える役目までもらった。その上、たまにあるワイキキの端まで漕いで行き、さらに観光客を乗せてから沖へ出る、一度で倍漕げる(倍疲れる、という人もいる)ラッキーさだった。なかなか体育会系でしっかり漕いだ2人の日本人はビーチに戻るととても丁寧に私にお礼を言ってくれた。少し話していると一人が私の実家の目と鼻の先に住んでいる偶然にお互い声を上げた。何となく何かが起こる一日になる前兆はいくつもあった。するとカヌ―のサブキャプテンが私の乗ったカヌ―やサーフレッスンをしているビーチスタンドのオーナーが呼んでいると言いに来た。
話をしたことがないオーナ―が何の用だろうと少し不安に思いながら行くと名前を聞かれた。そしてオーナ―の女性は自分の名を名乗ると「これからも必要な時はあなたを呼ぶから漕いでね」と言った。私はホッとしたと同時にパドラ―として役に立つようになったのかと嬉しかった。そして「ありがとうございます。今までは私のハワイアンの父の親友、ブル―のカヌ―に乗せてもらっていましたが、彼が引退してしまったので最近はここで乗せてもらっていました」と私が言うと「ブル―?今朝、海にいたわよ、もう何ヵ月も見なかったからビックリよ」と言ったのだ。私は耳を疑った。すると後ろから主人の「ミカ!ミカ!ブル―がいる!ブル―がいるよ!」と叫ぶ声がした。ロングボードを肩に担ぎ海から上がって私に知らせに来たのだ。そのとたん、私はもう走っていた。いちもくさんにブル―のいるビーチスタンドまでパドルを片手に、ビーチの人混みの間をぬって走った。けっこうな距離ではあったが、とにかく走った。気持ちがそうさせていた。あとでその様子を見ていたもうひとりのレジェンドキャプテンに「ほぅっ!ミカの足の早さとすばしこさにはビックリしたよ。チョコチョコチョコッ、とすごい勢いで走って行ったよ。」と何度も言われた。
ブル―に会いたい一心だった。
息を切らしながらブル―の前に着いた私を見ると太く、低い響く声で「ハイ!」と微笑みながら彼は言った。私は小さな子供のようにブル―に、飛びついた。本当に皆が引退したと言っていたブル―だった。私が一緒にいる間、いろんな人がブル―に挨拶に来たのは言うまでも無い。ブル―は自分がここに来たらみんなハッピーだ、と満足そうだった。
ブル―が何故戻ってきたか、それからどんな話しをしたか、それは次の機会に話すことにしようと思う。とにかく、この日のワイキキの海が格別に輝いていたことは間違いなかった。
美しい一日だった。
[PR]
# by ohanaokeale | 2011-03-15 09:39

第18話  盗作

2008年10月のある日のことだった。生徒の一人から、血相を変える勢いで電話がかかってきた。「先生、大変です!今、本屋さんでHULA Le'a(フラレア)という雑誌をめくっていたら、何かのイベントでどこかの生徒が身につけているスカートが、うちのオリジナルファブリックの色違いなんです!すぐに写メールします」。私は耳を疑った。そして送られてきた写真を見て、今度は目を疑った。間違いなく私がデザインした「市販されているはずのない」ハラウの紋様がプリントされたハラウオリジナル柄の色違い6色のスカートをはいた日本人のフラを踊る人たちだった。それは「PEACE PROJECT (ピースプロジェクト)」という湘南海岸で行われたイベントの記事だった。そしてこの布地が「盗作されたもの」であることは紛れもない事実だった。
今からかれこれ7年前、思うところあって競技会や新しいスタイルのフラから離れた私は本来のフラの血統である、 Iolani Luahine (イオラニ・ルアヒネ)の Grand nephew である ポニ・カマウウ (Poni Kamauu) の持っていた Halau Kaleihulumamo (ハラウ カレイフルマモ) の唯一のプライベート生徒として極めて昔のやり方により、現在では目にすることのないフラの原点を学び始め、真の伝統について知るようになった。そして自分自身のハワイでのルーツや、学ぶフラに基づくハラウの象徴となる紋様を創り、それを施したオリジナルファブリックでハラウのユニフォーム的な衣装を持ちたいと考えた。単なるデザインであればプロのデザイナーに依頼するところだが、私はたとえ時間がかかろうと私に自然に与えられるのを待つ、敢えてそんなスタンスを取ることにした。
ハワイアンの血は入っていないけれど、ハワイ先住民(ネイティブハワイアン)の養女としてファミリーネームを与えられ、又フラでも特殊で稀少な師に巡り会えた境遇の私にきっと天から与えられる紋様がある、そんな思いからだった。結局これ、という完成までには約一年を要した。紋様はまず布以外にもハラウのレターヘッドやTシャツ、ホームページなどあらゆるものに施された。そして、盗作に至るファブリック製作の経緯は次のような流れだった。
ロット数から製作を受けたのは「Hawaiian Fabric(ハワイアン・ファブリック)」というホノルルのカパフル通り近くの店だった。デザインを持ち込みいよいよ注文が出来上がり、日本への発送手続きに店を訪れた時のことだ。オーナーのJay(ジェイ)という男が私に写真のチップのようなものを見せ、もし色違いがほしかったら、と言った。当然大切な理由があって決定した2色だったので私はいらないと言い、チップはもらって店をあとにした。家に戻りオーナーの言ったことが附におちなかった私はまさかと思いながら手渡されたチップをもう一度よく見た。すると私が注文した地色とプリント柄色が同系色の2種類の他に、違う組み合わせの色違いの布の端切れを写したものが数枚あった。どう見てもコンピューターでのシュミレーションではなく、実際の布を写したもののようだった。
客の持ち込んだデザインで、あってはならないことだ。すぐさま店に戻りオーナーを問いただし、もし売るようなことがあれば違法であることを確認させ、そのようなことはしないと約束させた。この時私たちは、この男が人の良心など平気で無視する、ハワイでこの手の商売で渡り歩いていた悪い奴だということを知るよしもなかった。

そしてこの事件の第2幕が、私たちの知る限りでは TRANCE-PACIFIC TEXTILES(トランス・パシフィック・テキスタイル)を通り、FABRIC MART(ファブリック・マート)とWALMART(ウォルマート)に売られてしまった私のデザインしたハラウ・オリジナルファブリックを大量購入したカウアイ在住のクムフラとの長引いたひともんちゃくだった。この第2幕は私やハラウの生徒、私のニイハウの家族やハワイの友人達までを言いようのない憤りと、またもや知ることになった「ハワイのある種の人たち」に対する言葉にできないジレンマによる多大なるストレスに落とし入れた。
ハワイでも信頼のおける一流の弁護士に依頼するため、主人の長年の知り合いであるアメリカ本土の弁護士のトップ中のトップからハワイの弁護士を紹介してもらうことにした。
個人のデザインはたとえコピーライトを特許庁に登録しなくても作者の「権利」は当然製作された時点で発生する。しかし金銭的訴訟をするためには法的登録が必要であり、裁判に持ち込むとなればその費用は1000万円にも及ぶ。私のオーダーした店のオーナーは個人がこのような費用を投じることはないとあらかじめ見越して、計画的にしたといえる。そして弁護士がいきさつを解明し、販売を中止する約束の書類のやり取りを行う中で一番まともな応対をしたと思えるのはWALMART(ウオルマート)だけで、間に入って実際に東南アジアでプリントをしたTRANCE-PACIFIC TEXCETYLE(トランス・パシフィック・テキスタイル)はHAWAIIAN FABRIC(ハワイアン・ファブリック)が結局2種類以外の布を引き取らず、困り、だから売りさばいたという返答だった。そしてこの最中にハワイアン・ファブリックがインターネット上で要注意企業リストに載り、翌日オーナー名が変わったものの同じ場所、同じ会社名で事業はすぐに再開される、という奇妙な事態が起きていた。
著作権が実際に侵害されことで私は紋様の法的登録を行った。それと同時に私たちは日本の弁護士と相談し、大量の布を購入していたカウアイのクムフラにはある意味2次的被害者と考え、この事態を悪化させないためにさらなる購入及び使用の継続は法的に問題であるお知らせとお願い、という形で手紙を送ることにした。弁護士も私たちも当然、相手はこの事情に驚き、今後の対策について尋ねてくるのが常識と考えていた。ところがだった。弁護士ではなく私たちのメールアドレスを探し出しメールを送ってきた。訴訟の有無に関わらず盗作という犯罪を犯した人間が絡んでいる事情であるからには、弁護士を通すのが正しい、賢いやり方だが、カウアイのクムフラには直接私に手紙をよこした、勝手な自分の都合があること、がその内容から読みとれた。
使用したいという言い方は一切なく、自分には使う権利があると思わせようとする、こちらをねじ伏せようとする言い分を一見やわらかな口調で上手い言い方でする、という極めてずる賢い手紙に弁護士もあきれ果てたのだった。まず、自分がいかに特別な人であるか、が延々と書かれてあった。その次に、これからもフラの重要な儀式で使用するために、この布がさらに必要であること、などが述べられていた。
すでに関わった全ての会社は当然、この布についての私の権利を全面的に認め、今後の生産も販売もしない約束をしていた。私は昔の正しい本当のクムフラが皆そうしたように、自分のハラウの紋様は自分でクリエイトした。そして私に関わりのあるニイハウに古くからまつわる柄をデザインの一部に組み込んだことから敢えて、金銭的補償を得るための手続きもしなかった。それを盗作とわかっても尚、使用を続け、さらには注文をすると言い張るカウアイのクムフラを皆が理解できなかった。結局、お願いの手紙は再三に渡ったが、このクムからの約束はとりつけられなかった。また、このクムは私をねじ伏せることではなく、買った店と交渉すべきなのは常識を知る人なら皆が考えることだった。盗作とわかっている、他人のデザインした紋様の布を身にまとわされる立場を思うと気の毒に感じた。その上、重要な儀式だの、考えただけでおぞましいと誰もが感じた。そして一年近く、らちがあかないまま私の弁護士費用もかさんできたため、このクムに関わるのをついにやめることにした。
私は今までもそうであったように、必ずや「天は見ている」それだけの気持ちで、この事件について語るのをおしまいにしたいと思っている。
[PR]
# by ohanaokeale | 2010-03-15 21:59

第17話  Aumakua(アウマクア)

アウマクアはネイティブハワイアンが持つ祖先神、守護神のことだ。ハワイアンがハワイの生き物を個人や家を守る大切な祖先として崇敬する象徴である。
私は日本人なので、元来アウマクアは持っていないが、いつもHonu(亀)のものを身に付けている。
それは私をハナイ(養子)にしたネイティブハワイアンの父、Moe Keale (モエ・ケアレ)のアウマクアがHonuだからだ。
アウマクアは単なるお守り的意味だけでなく、祖先たちが共に生きて来た、共存して来た家族であり、分身でもある。
Keale家はHonuとMano(鮫)と共に生きて来たと聞いている。
もし子孫として正しく生き、守られているならば世の中で恐れられている鮫に出くわしたとしても恐がることなどない。
私の知っているハワイアンにも、ハワイの先住民の伝統を受継ぐ家系のひとつ、フィッシャーマンの家系の人がいる。マスタークム フィッシャーマンであった彼の父親はアウマクアである鮫と、まるで戯れるかのようにいつも一緒に泳いでいたそうだ。
これこそ、まさに“アウマクア”である証しだ。
私がHonuのものを身に付けているのは、私をハナイした意味を語ることなく、しかし、多くの贈り物を私に残し、いまだに私に数々の奇跡を起こし続けてくれる、父 モエ・ケアレといつも共にいる、そんな気持ちからなのだ。
アウマクアは時として、何かの指針やシグナルを示すものでもある。
さて、アウマクアにまつわる私の3つのおもしろい体験について話そうと思う。

数年前にオアフ島ハレイワ方面にある、観光客にも有名なホヌビーチ、プエナを訪れた時のことだ。
ここは砂浜で思い思いに甲羅干しをする無数の亀を見ることができることで、いつも多勢の観光客でにぎわう、人気のスポットだ。砂浜に続く岩場では、岩についた苔を取り亀の餌付けをする人たちもいる。
あくまで自然生息の状態を守るため、亀に触ることは禁止されている。
その日、私も苔を手にして海の中に腰まで入ると、あっという間に数匹の亀に取り囲まれた。時々亀の甲羅が脚にあたると、痛いくらいそれは硬かった。
夢中になって苔を亀の口に入れていたそのとき、突然鋭い痛みを太もものうしろに感じた。
私はあわてて海からあがり、痛みを感じた部分を見ると赤くなっていた。
どうやら亀にパクリとやられたようだった。
次の瞬間、私は痛みよりも、この出来事に不安を覚え、すぐにある人に電話をした。
“アウマクア”にパクリとやられるとは、知らないうちに私は何か悪いことでもしているのかと思ったのだ。
しかし、私の心配をよそに、話を聞いた人は笑っていた。もし、悪い知らせや制裁であるときは姿を隠していて突然に姿を表わすと、人の指を喰いちぎるほど咬むというのだ。そういった事件は多々あるらしい。
私の状況はそれとは違ったので、話を聞いてホッと胸を撫で下ろした。
そして翌日、変色し、打撲あとの青あざのようになっていた跡を見て、おもしろいことに気がついた。
ある“紋様”がはっきりと浮かび上がっていたのだ。
まわりの人は、ミカはHonuにキスマークをつけられたと、皆笑った。
私はこのアクシデントで、亀の口型を知り、その形と共通するものがあることを知るという珍しい体験をしたのだった。
おそらく、Honuがアウマクアであった昔のハワイの人たちも、亀が何かにつけたものから、この口型を発見したのかもしれない。
しばらく消えなかったこの紋様を私は時々鏡に映しては、少しうれしい気持ちで眺めていた。
そして、そのうち消えた紋様を記憶の中にしっかりとどめたのだった。

次はMano(鮫)の話しをしよう。
もう前後のストーリーが思い出せないのだが、私は両足を鮫にパクリとやられた。
と言っても、これは夢の中での話しだ。とても不思議な夢だった。
私は海で何かにまたがり、両足をダラリと海の中にたれていた。
2匹の鮫がやって来て、私の両足の先を1匹ずつが、噛むというよりはパクリとくわえた。ちょうど“充電”していたような、そんな感じだ。
さすがに驚いたが、足から鮫が離れた時に足は何ともなっていなかったので、そんな気がしたのだった。
鮫はKeale家のアウマクアというだけでなく、私のフラの師の家系のアウマクアであることから、おそらくフラに関する“サイン”であると考えた。
クムにこの夢の話をすると、とても興味深げに何か頭の中で考えている様子で聞いていた。
しかし、その表情から、どうやら悪いことではないのが察知できた。
この夢が何を意味するかは、いずれ時が来たらわかるだろう。

最後は、2008年8月3日の出来事だ。
この日、私は Kauaiの Kekahaから Lihue に引っ越したばかりの、私をとてもかわいがってくれている、父モエ・ケアレの姪である、おばさんを訪ねていた。
引越し後の整理や新しい家具の調達などお手伝いのためだ。
おばさんは、私の家はミカも自由に使いなさいと、私の部屋を用意してくれていたのだ。
私が家具の一部や食器を揃えたり、自然な形で協力し合う特別で良い関係だった。
私がオアフに戻る日の朝、私たちはWaimeaのハワイアンの教会に行き、礼拝のあとNiihauの人たちと話したり、お昼を食べたり、あれこれしているうちに、あっという間に飛行機の時間は迫ってきていた。
おばさんは脳梗塞の後遺症で半身が不自由とは思えないほど、普段からアグレッシヴで、車の運転もなかなかの腕前。
見事なハンドルさばきでワイメアからリフエのエアポートまでの道程を、車をふっとばしていた。
私は後部座席で時間とスピードに多少不安を抱きつつも、見慣れたカウアイの美しい景色を眺め、楽しんでいた。
その時、横の窓から風景を見ていた私は、ふと前方から視線を感じた。
視線の先のフロントガラスからは、道に沿って延々とつづく電線が見えていた。
するとその電線の中程に大きな影がこちらを見ていたのだった。
かなり手前から発見したが、はっきりとシルエットとやや斜め下向きに、ちょうど私たちの方を見ているような角度でじっとたたずむ姿は、間違いなく“Pueo”だった。
私は瞬間に“Pueo!Pueo!”と指を指しながら何度も叫んだ。
おばさんも助手席にいた主人も私の声でその姿を確認した。
車はアッという間にPueoの位置を通り越したが、私は振り返り、後部窓から“Pueo!Pueo!”とまだ叫んでいた。
興奮がおさまらなかったのだ。
おばさんは“Very unusual!This is a good sign”と言った。
とても特別で滅多にないことだと、私もわかっていた。
Pueoもハワイアンのアウマクアとされている生き物のひとつだ。
オアフに戻ると、私は早速クムにこの出来事を話した。
クムは目を輝かせ、とても納得したような顔をして、これは“サイン”なのだと言った。
そしておもしろい偶然の話しをしてくれた。

以前、私と同じ体験をしたある人がPueo の古典フラを教えて欲しいと私のクムを訪ねて来たらしい。
Pueoは対照的状況であるその人と、私に何らかのサインのため現れたというのだ。
現代の古典フラ、と言われているカヒコは本来の古典フラのモーションに手を加え、変えた人達の新しい”振り付け”のフラとして世の中に知られている。
本来の古典フラは伝承すべき事柄や歴史事実をその役目を担う特定の人とその家系代々の選ばれた人達によって、あえて書き残さずに言葉の代わりにモーションで残されたものであり、動きには多くの秘密が隠されており、単なる振り、や踊りとは違う。
よって、変えた創作作品から本当の意味や内容を知ることは、窮めて不可能に近い。この点が何をもってフラというのか、大事なところだ。本来のフラを継続して学ぶことなく、必要な時や、限られた数のモーションを手に入れては手を加え、変えた人たちは、元々、”役目”としての系図を持ったクムではないので、そのフラは創作作品としては現代においてはあり、かもしれないが、その多くが継承者・伝承者を語るのは誤りで、何ともあさましい感じがする。
いずれにせよ、私たちはアウマクアを含めて、行いの全てを、人間は見過ごしても自然は常に見ていると感じて過ごしたいものだ。
この次にアウマクアからのお知らせ、が来る時が楽しみである。 
[PR]
# by ohanaokeale | 2009-06-15 21:31

第16話  Tatoo(タトゥー)

ニイハウのケアレのおばさんから聞いたハワイアンのタトゥー(入れ墨)について話そうと思う。
おばさんはニイハウ島とカウアイ島を行き来しながら、ハワイ人の教育や文化、ハワイの環境自然などの分野で多大な貢献をしている、名の知れたネイティブハワイアンだ。
今やハワイアンと一概に言ってもいろいろな人がいる。
ハワイに夢中の人々にとり、ハワイ人の血を持っていることは、それだけでハワイの文化を知る人と錯覚を生み、絶対的存在になる傾向がある。また、それをいいことにネイティブの知恵、知識、思想、文化に精通していなくとも、あたかも受け継いでいるかのような言動、行為をしている恥ずかしいハワイ人は多くいる。
私のおばさんは、その中で素朴さと強い信念と志(こころざし)を持ち合わせ、自己の利益ではなく、ネイティブハワイアンとしてハワイのために生きている真のハワイアンといえるひとりだ。第13話で初対面を果たして以来、私をとてもかわいがってくれている、そして私も尊敬する、あの、おばさんだ。
さて、実は私は過去に2度程、タトゥーを入れるか迷ったことがあった。悩むという程、大げさなものでもなかったが、私はピアスの穴をあけることにすら抵抗を持っていたことや、子供の生徒がいるので、その親からしてみればタトゥーを入れている先生はいかがなものか?とも思い、結局入れることなく現在に至った。
もちろん、今後もタトゥーを入れることはないだろう。そしてニイハウのおばさんの話しを聞いて、タトゥーを入れなかったことは良かったと思っている。
最初のタトゥーを入れるチャンス(?)は当時の私のルームメイトが大がかりなタトゥーを入れた際に、ミカも同じ図柄の一部をどこかに小さく入れてみては?という話しだった。しかし、ひどく体調をくずしたのを目のあたりにし、アレルギー体質の私は、当然入れるのをやめた。
2回目は、それから何年も経ってからだった。モエ・ケアレが他界してまもなく、ある人からモエさんが生前タトゥーを入れることを考えていた、と聞かされたのだ。それならば、私もいよいよ祖先である守り神のホヌ(カメ)でもいれようかしら、と考えた。しかし、そうこうしているうちに、何となく入れない結論に達したのだった。
それには、大きく2つの理由があったと思う。
ひとつは、私が新たに歩み始めていた“フラ”にあった。この“フラ”についてはいずれ詳しく話すときが来ると思うが、簡単に言うなら、“現在の、ハワイのクムフラという人達の教えるフラとは異なるフラ”を学び、踊っていたからだ。この“フラ”の踊り手はもちろんタトゥーをしていなかったことは大きい。
そして、もうひとつは私を養女(ハナイ)にしたモエ・ケアレにある。
モエ・ケアレは祖先に“カフナ”がいた。そして彼自身もその役目をある部分受け継いでいた。血筋に“カフナ”がいるということが、その家系が全員その能力を持ち、役目を持つというわけではない。逆に相反するような者が出る場合もある。それはバランスだ。
モエ・ケアレには他の人とは違う、不思議なスピリチュアルな力があったことを実体験で私は知っている。さらにモエさんが他界してから、年月が経つほどに、生前の私への言動の意味、理由が明確となって来ている。
ハワイの“カフナ”とは、同じ先住民の文化で例えるならば、ネイティブ・アメリカン(アメリカ先住民又はアメリカ・インディアン)と呼ばれる人たちの“メディスン・マン”にかなり近い。
アメリカ先住民文化の研究者で立教大学教授でもある阿部珠理先生は著書で「メディスン・マンをどう日本語にするかについては大いに迷う」と書いている。そこで先住民の言語をその語源の“背景となる根本的思想”から分析し、ことばの意味を解説している。
“カフナ”もヒーラーの意と解釈されることが多いが、かなりの誤訳だ。“カフナ”は生まれつき、もしくはある時から特別な能力を持ち、トレーニングなどでなろうとしてなれるものではない。薬草の知識があることでもない。何よりもある意味“神聖な域”を持つ人であるから、それを肩書きにしてお金を得ることも、自ら名乗ることも“カフナ”はしないのだ。
そのような役割を持つ人もタトゥーはしていない。モエさんがタトゥーを入れようとしていたとは考えにくい。
ニイハウのケアレのおばさんの話しはこうだった。
おばさんの娘がタトゥーを入れたい、と言い出した時のことだ。おばさんは黙って娘の目をジッと見ると、手招きをした。
すると、ただならぬ雰囲気を感じ、
“私がもしタトゥーを入れたら‥私を殺す?”と恐る恐る聞いた娘に、おばさんはこう言った。
“もちろん!私はあなたを殺すわよ”
何とも物騒な会話だ。
しかし、おばさんの言葉は、ハワイ先住民としての価値観に基づく、大切な裏付けとなるものがあって発せられた言葉なのだ。
そして、おばさんは、“ケアレはタトゥーを入れてはいけない”と厳しい表情で言った。当然、私はそれについて質問などしなかった。そう言うから、そうなのだ。
私が2度のタトゥーを入れそうになった機会は、まるで“運命の分れ道”だったような気がした。ハワイのチーフのタトゥーや戦士のタトゥーも、その入れ方に意味があった。
現代では、タトゥーはファッションのひとつになっている。たかがタトゥーくらい、または古いことにこだわっている、という見方をする人もいるだろう。
しかし、本来の文化の中にある、心の在り方や考え方、ひいては生き方のありのままを理解する姿勢が、その存在に敬意を払うということではないだろうか。
たとえ、それが“現代に残されているわずかなもの”であっても、本来のハワイ人の持っていた、目に見える部分も目に見えない部分も、全てを尊重したいと思う。
今やハワイは、“伝統”と言われているものが、本来のそれとは形を変えて、伝えられて来てしまっている。それはハワイ王国からアメリカのいち、州になったことも要因だが、それと共に何より人々の心や感覚、価値観が変わってしまったことによるところが大きい。
進歩や進化と称し、常に目新しいものを求め、本来の先住民の持つ価値観とは大きくずれたものに目の色を変えてエネルギーを注いでいる。
ネイティブのことばの意味が“背景となる根本的思想”から知り得るのと同様、そのほとんどが書き残されていない真実の“ハワイ文化”に出会えるか、否かは、“古い”と言われる人達と同じ価値観を持っているかどうか、なのだろう。
それは、モエさんも言っていた“血”ではなく、そうであるかどうかが重要なのだ。
ピュアハワイアンであったモエ・ケアレが日本人である私を養女にした大きな理由が、そこにあるのかもしれない。
これから先、世の中に新たな変化の波が押し寄せたとしても、私の価値観は決して変わらないだろう。
それは“原初に基づく、自然の法則にのっとったものの大切さ”を感じているからだ。
[PR]
# by OHANAOKEALE | 2008-09-15 20:30

第15話  Aunty Genoa アンティ ジェノア

 その日は早朝、まだ外が暗い時間に、私にお知らせを告げる “いつもの鳥” が、ひときわ大きな声で強く私に呼びかけていた。私は目を覚ましたが、再び眠ることにした。いつもなら声をたよりに鳥の居場所を探し Oli を捧げるのだが、この暗闇では到底姿を見つけられない。
 しかし、ふと頭をよぎった事があった。前日、アンティ ジェノア がもう長くはない、というお知らせが彼女の通う教会で家族から告げられた、という電話を受けていたのだ。
 Aunty Genoa Keawe は89歳で、現役を続けていたハワイを代表するファルセットボイスのレジェンド歌手だ。ハワイで彼女を知らない人はいない、皆に愛された歌手の一人だ。皆が親しみを込めて “アンティ” と呼んでいた。
 実はこの “アンティ” や “アンクル” を名前の前につける呼び方は、ハワイではよく聞かれる言い方で、親しみを込めて言うハワイ独特の呼び方と解釈されているが、そうではない。正しい使い方は、個人的に親しい間柄の時にのみ使われていたのが、現在は誰でも〝気軽〟に〝安易〟に使うようになったとクプナ(年配の知恵を持った人)から私は教わっていた。アメリカナイズされた今のハワイ人は知らないのだ。ここで私が〝アンティ ジェノア〟 と呼ぶのには、もちろん訳がある。
 2008年2月25日夜中に、 Aunty Genoa は89歳の生涯に幕を下ろした。悲しく、とても残念なことだ。でもアンティは十分に、きっとそれ以上に、彼女の天命を果たしたと人々は感じていることだろう。
 体調を崩して入院していたアンティは、家で最後を迎えたいと自ら帰宅を申し出たそうだ。そして、1月まで出演していた木曜日のマリオットホテルを訪れ、孫の歌う姿を見届けたという。
 ここに Aunty Genoa が私に語った話から、大切な何かを感じ取ってもらえたら、アンティも喜ぶのではないかと思い、ペンを取ることにした。
 アンティは古くからとても親しくしている、アンティと私の共通の友人にいつも、私と主人についてたずね、気にかけてくれていた。そして彼女の通う教会に顔を出すように、と言ってくれていたが、決して私たちを入信させようとしていたわけではなかった。
 さて、昨年2007年のある日曜日、私と主人はアンティに会うために教会のサービスに出席することにした。私があいさつに行くと アンティ ジェノア はとても喜んで、となりに座るよう私に言った。
 そしてアンティはサービスが始まるまでの間、ある日本人のフラの先生の名を口にし、私に話を始めた。
私はその人を知っているか聞かれたので、名前を知っていると答えた。すると、アンティは日本で開かれるコンサートのゲストに来てほしいと彼女に頼まれたという。しかし、アンティにとり、大切な日曜日が日程に入っていたので断ったのだという。
 すると、そのフラの先生は、〝もう少しお金を払うから、ぜひ来て欲しい〟とお願いしたという。アンティは眉間にシワを寄せ、そしてとても悲しそうだった。
 〝ミカ、わかる?〟と、静かな口調で言ったアンティに、私は〝わかります!〟と答えた。アンティはこう続けた。
〝ミカ、私の声は神様にもらった贈り物なの。特別な贈り物なの。だから私はずっと歌ってきた。自分の子供さえ、私より先にこの世からいなくなっても、それでも私は生かされていて、歌っている。だから日曜日は私が唯一、一日中仕事をお休みにして神様に感謝をする大切な一日なの。〟
 私は、私をじっと訴えるような目で見て話すアンティに〝よくわかります!〟ともう一度答えた。そして、〝お金の問題じゃないのよ…〟アンティはつぶやくように言った。
 私はアンティと長い間交流を持ち、有名で顔の広いアンティに、いろいろな人を紹介してもらっていた日本人のフラの先生を、ここで批判するつもりは全くないが、頼まれれば快く、できることはしてあげてきたアンティの心をわかっていなかったことをとても残念に思う。
 昔、アンティは日曜日もエンターテイナーとして仕事をバリバリしていた。しかし、ある時からピタリと日曜日の仕事を止め、それからは毎週、毎週必ず教会に来るようになったという。きっとアンティの中で何かがあったに違いない。大切なことに気づいた何かだ。そして最後まで自分の人生を天に感謝しながら、天命をまっとうしたのだと思う。
 ホノルルのお葬式は、もちろんTV中継もされ、5000人を超える人が駆けつけた。数日後、ライエの小さな教会でも人が集まった。私と主人はそれらの式には出席せず、その週の日曜日、アンティの通っていた、いつも通りの教会に向かった。少し遅く到着したため、道路端には駐車スペースはもうなかった。当然いっぱいであろうと、教会の駐車場に迂回するために入って行った。もちろん満車状態だった。
 ところが、出口近くにさしかかると、ラッキーなことに他のところより、広く線で仕切られたスペースが、たったひとつ空いているではないか。私たちが車を止めよう進んで行くと、そのスペースのすぐ前に駐められていた車のナンバープレートは、〝GENOA〟 だった。家族が乗ってきたアンティの車だ。主人と思わず顔を見合わせ、私たちは自然に笑みがこぼれていた。今日、ここに来た私たちの気持ちは、アンティに伝わったのかもしれない。
 アンティが大切な胸のうちを語ってくれたことは、私にとって貴重な贈り物となった。そして、ハワイのリビングにはアンティが〝今日出来上がったばかりの、最初の1枚よ〟と言って、私にくれた白黒のポートレートがサインと共に飾られてある。
 4月6日さくら咲く日本で、Aunty Genoa の声は春の空のように澄み渡り、春の日差しのようにあたたかく、 Hua Akala そう、さくらの花びらのように、天空高く舞った。私たちは、アンティの思い出を胸に踊った。
 フラは、ハワイに欧米文化が上陸し、現在世の中で主流となっている〝新しいフラ〟が生まれた。しかし、本来のフラ、ハワイに元々あったフラの本当の姿は、山に、海に、太陽に、月に、雨に、風に、そして人々への〝祈り〟だ。あらゆるもの、ことに新しさを追求し、時代は変わり、進歩、進化を遂げても、祖先の心は決して変わらない。変えられるべきものではない。住む人が変わり、自然も破壊され、景色は変わっても〝魂〟はそこにある、生き続けていると考えたい。フラにモダンもカヒコもない。フラはフラだからだ。
 そのフラの本質がないがしろにされている現代はとても恐ろしく思える。いつからか、人はフラを、口では本来のフラの持つ意味をキャッチコピーのように語りながら、実際のフラとは程遠い、利己的な欲の道具として使うようになった。
 私は、生徒と共に、昔のハワイの人々が持っていた魂(マナ)の存在する〝フラ〟を、その心を忘れずにこれからも踊り続けていくだろう。
 アンティ ジェノア をはじめ、大切なことは何かを考え、見つめるチャンスをいつも与えてもらえる人達がいることをありがたいと思う。もちろんモエ・ケアレもそうだ。
 その人たちの心、祖先の心を裏切ることなく、生きて行きたい。

 最後に、このミスティックハワイは、毎話15日という日を選んで更新してきたが、本日4月15日についてひと語。
 極めて私的な事だが、私がプロのミュージカルダンサーとしてデビューとなった日、東京ディズニーランドの開園記念日であることが一つ。二つ目は、人生の大きな変化である結婚記念日。そして三つ目は、ハワイの父、モエ・ケアレの命日だ。人生の転換となった三つの大きな出来事の起きた日、それが4月15日なのだ。
 そしてもう一つ、偶然にも気がつけば、今回は第15話ではないか。 Aunty Genoa という特別な人について話すことにしたことが、偶然の不思議をここにもうひとつ起こしたような気がしている。
[PR]
# by ohanaokeale | 2008-04-15 00:40

第14話 ニイハウ オハナ その2

 カウアイ島とニイハウ島を行き来して暮らすおばさんと親しく付き合うようになった私は、頻繁にカウアイ島を訪れるようになった。それによって体験している感動的な出来事については追々話すとして、2007年8月にカウアイ島で出会った人について話さなくてはならない。
 カウアイでの滞在中はおばさんに言われた通り、ニイハウの家族と共に過ごし、私がハワイ語に慣れるように子供達もハワイ語で私に話しかけるようにしたり、貝の選別を手伝ったりして過ごす生活だ。おばさんは私の手料理がお気に入りで、リクエストに答えてイタリアン、煮物、寿司まで作る。多いときは家族全員で10人以上集まる。元々料理好きなので、すし桶まで持ち込み、職人のように“にぎり”までトライし、結構楽しい。
 夜、おばさんと私は皆が寝た後も話しをしたり、指示されたとおりに片づけや、言われた用を済ませてから横になる。何故なら半身が不自由なおばさんは一人では何かと大変なのだ。いつも一緒にいられるわけではないからこそ、出来るときに精一杯しておきたいと思う。
 その日、昼間おばさんは仕事に行き、他の家族も夫々出かけていたので夕方近く私は主人と車でNohiliの海岸端まで出てみることにした。以前にも行ったことのある場所だったが、海岸に出るまでの道は舗装のされていないひどいデコボコ道でうっかり口をあけていたら舌を噛むか、首や腰の骨を捻挫するのではないかと心配するくらいひどいコンデションの道だ。
 やっとデコボコ道が終ると砂が道まで覆っている軽い砂丘状態を超えてようやく辿り着く。前回、砂丘状態の地点で、普通乗用車の私たちは見事にはまり身動きがとれなくなった。何を思ったか主人はまたもや無理やり突破を試み、もちろん、車は砂に埋もれ止まった。前回は止まるや否や、待機していて車を助けてはお礼をもらう仕事?の人が現れたが、今回は出て来なかった。しかし、運良くビーチバーべキューをしている地元の人に助けを求め、ようやく脱出した私たちはそそくさと、ろくに海も見ず家路を急いだ。
 その帰り、ほとんど木もろくに生えていない乾燥した畑に“ある鳥”が現れた。その鳥はある時から、私に良い知らせを告げる幸せの青い鳥ならぬ、不思議な鳥だった。まさかこんな運の悪い間抜けな出来事のあとに、いったいどんな良いことがあるのかといささか、けげんに思いつつも少し気分を良くし、おばさんの家に戻った。
 家はまっ暗で誰も帰っていなかった。どうやら夕食の支度をする必要がなさそうなので、私たちはどこかで外食をすることにした。といってもカウアイのこのあたりはほとんど何も無いので、最初に見つけたレストランに入った。奥からハワイアンの生演奏が聞こえてきた。ウエイトレスがミュージシャンのすぐ横の席に案内した。その席しか空いていなかったのだ。カウボーイハットにウエスタンブーツを履いた男の人がギターを弾きながら一人で歌っていた。
 “Waialae”という歌だった。この歌を歌う人は珍しかった。聴いている人で知っていた人も少ないかもしれない。私はモエさんが歌っていたのでもちろん知っていたのだ。私が徐々に歌に引き込まれていくとその人は次に“Ua Mau”という歌を歌い始めた!
 この歌は、ニイハウの本にも伝説が出てくるモエさんのおじいさんが作った特別なファミリーソングだった。私は鳥肌が立つと同時に涙がとめどなく溢れた。この人はいったい誰なのだろう?十番まであるこの歌をこの人は何も見ずに最後まで歌いきった。それどころか心の底から思いが込められているのがひしひしと伝わってきた。
オハナ(家族)、だろうか?
 演奏が終るとその人は私たちのところへやってきた。どこから来たか尋ねられたのでオアフ、と答えた。きっと席に着くなり自分の歌を聴いて泣いていた不思議な観光客と思っただろう。私は何か尋ねようか迷っていたが、何故かこの人は間違いなくモエさんに関係のある人だと確信したと同時に「私はモエ・ケアレのハナイです。」言葉が口から出ていた。と、その瞬間その人は天に向かって握りこぶしを高く上げて「Aloha Ke Akua!」と叫び、私を力いっぱい抱きしめた。そして何度も何度も繰り返し天を仰いだ。
 この時まだ私は、Uncle Manaが何故これほどまでに私との出会いを喜んでくれたのかを知らなかった。彼はMoe Kealeの甥で最後のニイハウのケアレ、ジョン・カイマナ・ケアレJr.だった。私をかわいがってくれるニイハウのおばさんの弟だ。
 そして、感動的な出会いの翌月の9月14日、Uncle Manaに再会した日が最後になるとは、その時思いもしなかった。
 9月、私はニイハウのおばさんが作詞し、2007年度の“NaHokuHanohano Award”のHakuMele(最優秀作詞賞)を受賞した”Niihau”という歌をニイハウの子供達に教え、コンサートで踊るという特別な機会を与えられ、カウアイ島を訪れていた。
 コンサート前日の早朝、あるカフェでUncle Manaとバッタリ会った。彼は一緒に来ていた友人二人に私を紹介した。
「僕のおじさん、モエ・ケアレを知ってるよな?彼女はアンクルモーのハナイなんだ!」
二人はへえ~!という感じだった。そしてUncle Manaは彼らにこう続けた。
「アンクルがカウアイに来たときに日本人のハナイのことを聞いていたんだ。ついに会えたんだよ!」
とても感慨深げだった。モエさんが亡くなり5年も経つ、いつ話したのだろう?それでこの人は私に会えたとき時に、あんなに喜んでくれたのだ。
 私が持ち歩いている勉強のファイルのモエさんの写真を見せると、自分の顔を横に持って行き、友人に見せて「どうだ、似ているだろう?」と得意そうに笑った。モエさんのお葬式で、お棺の横で一晩中立っていたのがUncle Manaだった。
 2007年12月13日、50歳でUncle Manaはモエさんのところに行ってしまった。
一度しか聴くことのできなかった彼の歌声と、天を仰いだ姿は私の頭と心の奥深く刻まれ、素晴らしい贈り物となった…….。
[PR]
# by ohanaokeale | 2008-01-15 00:26

第13話 ニイハウ オハナ その1

 この一年間に、私はこれまでにまだ出合うことのなかったオハナ、ハワイの家族に対面することとなった。もちろん今までと同じく、偶然が偶然を呼ぶ感動的な出会いばかりだった。
 2006年の秋頃だった。生徒の一人の結婚が決まり、結婚祝いに思いついた、“とあるもの”が私にある人物との素敵な出会いをもたらした。
 正直に言って生徒の結婚式の出席は全員となるといろいろな意味で極めて難しいものだ。ある日のお稽古のあとふと、彼女のお付き合いしていた人について元気か尋ねてみた。すると彼女は少し驚いた顔をして、実は12月に結婚が決まったこと、私にお式に出席してもらいたいが困らせてしまわないかと言い出せないでいたことを話し出した。
 その様子はいかにも、いつも相手の心を思いやり、気配りをし、控えめな彼女らしい態度だった。私は頭の中で予定をチェックし、出席の返事をその場で告げた。嬉しそうに帰った彼女は、すぐにお礼と自分の気持ちを綴ったメールを送ってきた。
 今までにも彼女が悩んでいたり迷っている時に限って私が話すきっかけになる言葉をかけたり、解決の糸口になる話を自然にしたりということが頻繁にあった。彼女はその度に、何か縁があるのかもしれないと偶然を心から喜んでいたが、今回も同じだった。
 さて、私が贈り物に思いついたのは 私のハワイの父、モエ・ケアレに由縁するNiihau島の宝とも言えるニイハウシェルのネックレスだった。自然の産物としての希少価値はもとより、細工の技術、美しさは類を見ない特別なレイで、高価であるだけでなく、何より観光客の訪れることのできないこの島に暮らすハワイ先住民の心が宿る、品なのだ。
 博物館やハワイのアーチストの作品や特産物を扱う店でも購入できるが、これで生計を立てる島の人のことを考えると直接買うほうが良いと思った私は、ハワイの家族の中で、最も信頼しているモエさんの甥の一人に相談をすることにした。
 二日後には私は日本に戻る予定だったが、なんと丁度その前日にニイハウの家族が用事があり偶然にもホノルルに来るというタイミングの良さで、レイを持ってきてくれることになった。しかも、今までずっと自然に会うチャンスを待っていたニイハウのおばさんに会えるという、私にとってまさに一石二鳥の出来事に心は弾んだ。
 さて、待ち合わせのホテルのロビーで顔も知らないおばさんを待った。どんな人か、どんな顔なのかをあれこれ勝手に想像しながら時間は経った。すると電動の車椅子に乗りムームーを着た小柄な人が微笑みながらこちらに近づいて来た。お互いを確認し合い、私達は抱き合った。
 彼女は娘夫婦を伴って来ていた。早速、娘夫婦が徹夜で仕上げたというレイとイアリングを見せてくれた。ニイハウシェルの中でもとりわけ小さいkahelelani(カへレラニ)という貝でできた見事な美しさに息をのんだ。そして値段を尋ねるとおばさんと娘は早口なハワイ語で何やら相談を始めた。大学で学ぶようなスタンダードなハワイ語とは全く異なる、ネイティブのハワイ語だということは私にも解ったがもちろん何を言っているかは理解不能だった。
 そして、言われた通りの金額を渡し、お礼を言った。一緒に食事をした後、別れ際に私の顔をじっと見ていたおばさんが言った。「あなたはまるで少女のような人ね。でも心の中に強いものを持っている。あなたのような人、好きよ。」
そして今度カウアイに来なさい、二イハウシェルレイの作り方を教えてあげるからとニコッと笑った。いろいろな思いが込み上げて来て涙がこぼれた。
 初めて会った私を分析して、それを口にしたこのおばさんがいっぺんで大好きになった。なぜならこの人に嘘はつけないからだ。私は嘘をつかない人間だから、人の心を見抜くこういう人こそ安心なのだ。モエさんも同じだった。
 自分に都合が悪くなると作り話をしてまでも、人を悪者にしようとする人たちの狡さにうんざりしている私は、このおばさんに出会わせてもらえたことは天の助け、の気持ちだった。おばさんは、会う理由があって私たちは出会った、とも言った。その通り、このあとおばさんとの付き合いは私にますます特別な出来事をもたらすこととなった。
[PR]
# by ohanaokeale | 2008-01-15 00:14

第12話 Puu Anahulu

 ここ数年11月になるとハワイ島での“フラの奉納”がハラウの行事として恒例になりつつある。ハラウのモットーでもある“昔の人たちが大切にしていたことを続けて行く”活動のひとつだ。
 そこにフラ本来の重要な役割や本質を見ることができる。そしてそこには真の魂とスピリットが存在する。さてこの活動については別の機会に話すとして本題のハワイ島で出合った、ある“mele(歌)”についての話しをしようと思う。
 2004年7月、私はKumuとハワイ島で車を走らせていた。Kumuは窓から見える景色の全てについて説明をしていた。木々、草花、土地にまつわる歴史、伝説、自然現象等など.。私は耳も目も全開状態で窓の右左をキョロキョロしながら、Kumuの口から発せられるハワイ語をひとつも聞き逃すまいと復唱しつつ、時おり速記のごとくメモを取っていた。このやり取りはいつでもどこでも当たり前になっていた。だいぶ慣れてきて耳もかなり良くなってきたように思う。
 そして、本来「Kumu」とはどのような人のことを指す言葉か?というと、そのひとつは“ハワイの風、雨についてどこからどこに、どんなふうに吹いたり降ったりするのかを知っていること”だ。
 以前、私に生徒がいることを知ったあるハワイのミュージシャンが自分のステージに私を呼び「彼女は日本のクムで、、、」と紹介した時に、私は自分をクムと言わないで欲しいと訂正し、意外に思われたことがあった。もちろんカッコつけや偉そうな気持ちからではない。どんなに踊りを褒められても、ぜひあなたに教えたいなどと怪しい誘いがあっても、得意になるどころか自分が学ばなくてはいけないことは何か、知らないことは何かを常に模索していたからだ。
 明確な根拠に基づいていたわけではないが「Kumu」とは特別なものを授かった人のことで、例えハワイですら誰でもがなれるものではないことを何となく気づいていたのかもしれない。かくして、この“気づき”は間違ってはいなかったと思うこの頃だ。
 最近では、フラの振り付けをする人を皆クムと呼ぶようだ。振り付けされたフラと、昔から存在する本来のフラの違いがわかる人は少ない今日だから仕方がないかもしれない。
 さて、話を元に戻そう。景色の中で私が特別に心を惹かれ、とっさにスケッチをした場所があった。私は通り過ぎても目に焼きついたひとつひとつを細かく覚えていて描きとめていた。そしてKumuに教えてもらった場所の名をそこに書きとめた。
 それから数週間後、私はアメリカ本土、オレゴン州にいた。
 Moe Kealeに生前、私のことを聞かされていたという甥の一人に呼ばれ、踊るために遥々この地を訪ねていた。ハワイからGeorge Kuo,Aaron Mahi,Martin Pahinuiらがゲストで来ていた。彼らはワイキキマリオットホテルで毎週日曜日に演奏をしていたがこの旅がきっかけですっかり親しくなったのだった。そして私は、数週間前にハワイで絵に残していた景色を、遠く離れたオレゴンで心の中に再現することとなったのだった。  
 一日目のステージ、彼らの演奏を聴いていたとき、ある一曲が私の心を捉えた。
 Martinの歌声は、昔はじめてMoeさんの歌声を聞いた時と同じ感覚で何故か懐かしく、私の血液の中にしみ込むように流れ込んできた。私の身体は固まり、心が震えていた。そのメロディーが頭から離れなかった私は、次の日も口ずさんでいた。翌日のステージの合間、ついに私はMartinに頭に残っていたメロディーの一部を歌い、「この歌が好きなんですけれど、タイトルを教えていただけますか?」と尋ねた。Martinは「ああ、ああ、それはプウアナフルだよ。」と答えた。プウアナフル?Puu anahulu?数週間前、ハワイで私がスケッチした景色、まさしく“Puu Aanahulu”だった。
 その夜、ホテルの部屋で、いつも持ち歩いている分厚いフラのノートを開き、鉛筆で描かれた紙をじっと見つめた。Martinの歌が頭の中で流れると、目の前の絵に色がつき、私は“Puu Anahulu”の場所に風に吹かれて立っていた。
 それから数ヶ月後、私は“Puu Anahulu”を踊っていた。何故か熱いものが込み上げ涙が溢れた、、、、、、。

     Nani wale Puu Anahulu i ka iuiu
     Aina pali kaulana puu kinikini、、、、、

 私が心惹かれた理由が何かきっとあるにちがいない。いずれ、それを知る日が来るだろう。
[PR]
# by ohanaokeale | 2007-11-15 23:38

第11話 Ululani

 ハワイのネイティブの植物に “Ulu(ウル)” という木がある。英名はブレッドフルーツ、別名 “パンの木” と呼ばれ、実がグレープフルーツ大の大きさで鮮やかな黄みどり色をした “Ulu” には5種類あり、その昔ハワイアンの大切な食用のひとつだった。現在では特徴ある葉と実がハワイアンプリントを代表するデザインとして布や紙にプリントされ商品になり売られている。
 “Ulu” の木は、あちこちの家の庭でも見かけることができるが、私の住むManoa(マノア)からワイキキ方面に出る時に必ず通る道のある大きな家の庭にもかなり立派な木がある。ある頃から私はこの “Ulu” の木が気になり始めた。元々 “Ulu” は好きな植物のひとつであったが、このところ特に私の心を惹きつけていた、この “Ulu” はとても力強く、勢いがあり、その緑色が輝いていた。
 さて話は変わり、日本で “Alohaコンサート” を終え、7月中旬過ぎにハワイに一緒に戻った私とモエさんの甥を待っていたのは、以前から体調を崩していた彼の妹 “シャリーン” の訃報だった。
 1ヶ月前に一度入院していたアンティ “シャリーン” を見舞ったのが彼女に会った最後になった。片手に入る回数しかあったことのなかったアンティだったが、とても強烈に印象に残る人だった。背は大きくないがガッチリしていて、声も大きく迫力のある人で、いつも豪快に「ガハハー」と笑っていた。
 彼女のお見舞いに行ったのはちょうど時を同じくして私をとてもかわいがってくれているNiihauのアンティも同じ病院に入院している時だった。私たちが行くととても喜んで、前日まで集中治療室にいてまだ鼻に管を通している状態だったにもかかわらず一生懸命話をしようとした。私がベッドに近づくと私の手を握り 「You are Keale, yeah-!」 と言ったあと 「ガハハー」 と笑った。
 その時の握り締めた手の力の強さと、私の手に食い込んだ彼女の鮮やかな“黄みどり”色のマニキュアをした爪が痛かった。その感覚を今でもはっきりと想い出せるほどだ。そう言えば以前、ダウンタウンで偶然に会った時もシャリ-ンは鮮やかな“黄みどり”色のマニキュアに、同じ色のバッグを持っていた。
 お葬式の日、シャリーンのいとこのNiihauのアンティと一緒にシャリーンのお別れに行った。お棺の中で微笑むシャリーンの爪はやはり鮮やかな “黄みどり” 色だった。そして同じ色のドレスに身を包んだ彼女はとても美しかった。
 私はその日彼女のミドルネームが “Ululani” であることを初めて知った。最後まで彼女が身に付けた色、それは鮮やかな“黄みどり”色、まさに “Ulu” の実の色だった。最高 (lani) のウルの名を持ったアンティ シャリーンは今、天 (lani) のウル (Ulu) 、そう “ Ululani ” だった。
 シャリーンの姉妹のアンティが私に言った。 “シャリーンは、すでに天に行ったアンクル モエ やイズ、リディア達と共にあなたのハラウを見守ってくれることを覚えておきなさい” 。お葬式の帰り道、あの “Ulu” の木の前で、私はOliを捧げた。
 日本に帰る日の朝、その家の玄関の前まで行ってみた。すると中年の日系の婦人の姿を庭に見つけたので、朝の挨拶をした後、思い切ってUluをひとつもらえないか聞いてみた。まだみどりで食べられないわよ、と言うので食べるためではなく2週間程前にアンティが亡くなり、彼女の名がUlulaniだったことを伝えた。
 するとその婦人はとても快く了承してくれ、広い庭の一番端の道側にある立派なUluの木から実と葉をカットしプラスチックバックに入れてくれた。今年は特に豊作だそうだ。 “おばさんのために飾るのね” と手渡ししてくれた。私は “はい” と答え、何度もお礼を言いその場をあとにした。
 この話を読む頃、レッスンに来る都度に生徒たちはハラウの入り口に飾られるこの “Ulu” の鮮やかな黄みどり色を目にすることだろう。そして私はアンティ シャリーンの私への最後の言葉、 “ You are Keale ” を決して忘れない … 。
 時々ふと思うことがある、“ Keale ” の名が付いたことで私の人生は容易ではなくなった。しかしその分、それは深く特別な意味を持っている。そしてどういう道を歩むかは考えなくても自然と目の前に道が現れる。自分で道をつくるのではない。自然に与えられた道が正しい道だ。
 自然体であること、自然の成り行き、また自然自体が尊く大切なものだ。「自然の」の意を持つハワイ語 “ Kupono ” は pono (正しい) に ku (立つ) ということだ。自然に与えられた道がたとえ時に厳しい道だったとしても、私は常に “ Kupono ” であることを選びたいと思う。
[PR]
# by ohanaokeale | 2007-08-15 10:22